風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

唯識・仏教心理学 85号

2007年05月24日 19時48分37秒 | 随想
工学部応用化学の学問をしたので、周囲の事物を物と捉えて処理する専門家である。女房からonce upon a time「あんたは機械人間で人の心をまるで理解できない。離婚してやる」と言われたことが再三再四であった。現在は折り合いが付いている。両親の死に遭遇し、多くの人と接して観察して、60歳を過ぎた現在は、反省して考えを修正し、人には心が有り、千差万別であることに気が付いたのである。

人の言葉・立ち居振る舞いで、心の動きがかなり予測できるのである。理解できない行動は、質問して、言葉で知ろうとする。それでも解からない心の動きがある。心理学は多くの人間と触れ合い、様々な心を学ぶ学問である。心を知る為にはあらゆる知識を総動員しなければ理解できない。

中国からインドに渡った留学僧、玄奘は西遊記で有名であるが、持ち帰った唯識思想が仏教の心理学である。東大寺・法隆寺・薬師寺・興福寺などで奈良時代に研究された仏教思想である。

この世界はただ識別にすぎない。外界の存在は実は存在しておらず、存在しているかのごとく現われ出ているにすぎない。識別とは心のもつイメージであり、我々をとりまく存在すべては心のイメージの投影にすぎない。(一切唯心造)

唯識を理解するためには、唯識の八つの識についてまず知っておかなければならない。「空」の思想を誤解して虚無的になったので、唯識思想では、とりあえず「識」(心)だけは仮にあるものと考えるところから出発する。

まず、感覚は五つあると考え、それぞれ眼識・耳識・鼻識・舌識・身識と呼ぶ。これを総称して前五識と呼ぶ。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚である。

その次に意識つまり自覚的意識が来る。六番目なので第六意識である。その下に深層心である末那識と呼ばれる無意識が想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心である。さらにその下に阿頼耶識という根本の心があり、この識が前五識、意識、末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、更に我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。阿頼耶識はDNAなのだろうか。

修行の結果悟りを開き仏になると、八つの識は「智」に転ずる。これを転識得智(てんじきとくち)という。 前五識は成所作智に、意識は妙観察智に、末那識は平等性智にそして阿頼耶識は大円鏡智に転ずるとされている。偏らない心・拘らない心・囚われない心の完成である。

仏教の考え方の基礎は、この世界の全存在は縁起、つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える(諸法無我)。唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考えるのである。一人一人の人間は、それぞれの深層心である阿頼耶識の生み出した世界を認識している(人人唯識)。

他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(倶有の種子)が存在するからであると唯識では考える。このような識の転変は無常であり、一瞬のうちに生滅を繰り返すものであり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく(諸行無常)。

横山紘一教授の講義を美濃加茂正眼短期大学のセミナーで聞いて、その著書「やさしい唯識 心の秘密を解く」より借用させていただいた。正しく仏教を解かっている、悟っている、覚性している高僧の話を再三聞き、立ち居振る舞いを真似て、信じきると(薫習)、仏教の心理学の唯識学学士となり、免許皆伝である。その為の時間は長く掛かり、生まれ変わって再度挑戦しなければ成らないほど、難解なのである。だから我々凡人は堂々と「心は解からないけれども、知る努力をします」と自信をもって言えばよいのである。


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