奥深い森の中にある貧しい樵小屋。クリスマスイブの夜、チルチルとミチルの兄妹は、奇麗に飾り付けられ、ご馳走がテーブルを飾るパーティで賑わう隣りの家を羨ましそうにに眺めている。ベルギーの劇作家モーリス・メーテルリンクが著した余りにも有名な童話劇「幸せの青い鳥」の冒頭である。
そして、兄妹は、夢の中で時空を越えて様々な宇宙を旅するのである。朝に目を覚ますと、これまで家で飼っていた鳥が青さを増していることに気づく。
「なんだ、僕達が探していた青い鳥だ!僕達ずいぶん遠くまで行ったけど、この鳥ずっとここにいたんだな・・・」
そしてチルチルは隣の娘に青い鳥をプレゼントするが、一瞬の間に鳥は飛び去ってしまうのである。二人は自分達の為の青い鳥を探しに行ったのではない。病弱なお隣の娘さんの為の青い鳥だった。他人に対する奉仕は本人達を大人にしてくれる。
山田洋次作品の映画「男はつらいよ」や、「釣り馬鹿日誌」、「幸せの黄色いハンカチ」が童話劇「幸せの青い鳥」に似ているように感じるのである。
青い鳥はフーテンの寅さんの恋人・ハマちゃんのお魚・黄色いハンカチである。
それでは幸せは何処にあるのだろうか?それが問題だ。
幸せは青い鳥探しの過程(プロセス)である。青い鳥は目標にすぎない。だから達成された時点で、無くなってしまうのである。一瞬の間に青い鳥は飛び去ってしまうのである。
フーテンの寅さん恋人獲得の為の努力・ハマちゃん釣行きの策略・黄色いハンカチに行き着く過程の心の葛藤が幸せである。それは心の旅路であり、人との交わりの喜怒哀楽が、まさに幸せなのである。喜びが、怒りが、哀しみが、楽しみが幸せなのである。
幸せは物ではないのである。幸せは形が無い。従って形のある物に幸せを求めても決して手に入れることは出来ない。幸せは心の有り様で、青い鳥は幻想である。
少年時代・青年時代・壮年時代・老人時代にそれぞれ小さな青い鳥が存在して追い求め、それなりに捕まえてきたのであるが、人生の大きな青い鳥がいて、まだ捕まえていない。
大きな青い鳥を捕まえた時には、もはや青い鳥探しの心の旅路は終了するのである。
人生の究極の大きな青い鳥は「死」である。幸せは天寿を全うした人生そのものである。
それからは三途の川を渡り、極楽鳥を探す旅が始まる。
そして、兄妹は、夢の中で時空を越えて様々な宇宙を旅するのである。朝に目を覚ますと、これまで家で飼っていた鳥が青さを増していることに気づく。
「なんだ、僕達が探していた青い鳥だ!僕達ずいぶん遠くまで行ったけど、この鳥ずっとここにいたんだな・・・」
そしてチルチルは隣の娘に青い鳥をプレゼントするが、一瞬の間に鳥は飛び去ってしまうのである。二人は自分達の為の青い鳥を探しに行ったのではない。病弱なお隣の娘さんの為の青い鳥だった。他人に対する奉仕は本人達を大人にしてくれる。
山田洋次作品の映画「男はつらいよ」や、「釣り馬鹿日誌」、「幸せの黄色いハンカチ」が童話劇「幸せの青い鳥」に似ているように感じるのである。
青い鳥はフーテンの寅さんの恋人・ハマちゃんのお魚・黄色いハンカチである。
それでは幸せは何処にあるのだろうか?それが問題だ。
幸せは青い鳥探しの過程(プロセス)である。青い鳥は目標にすぎない。だから達成された時点で、無くなってしまうのである。一瞬の間に青い鳥は飛び去ってしまうのである。
フーテンの寅さん恋人獲得の為の努力・ハマちゃん釣行きの策略・黄色いハンカチに行き着く過程の心の葛藤が幸せである。それは心の旅路であり、人との交わりの喜怒哀楽が、まさに幸せなのである。喜びが、怒りが、哀しみが、楽しみが幸せなのである。
幸せは物ではないのである。幸せは形が無い。従って形のある物に幸せを求めても決して手に入れることは出来ない。幸せは心の有り様で、青い鳥は幻想である。
少年時代・青年時代・壮年時代・老人時代にそれぞれ小さな青い鳥が存在して追い求め、それなりに捕まえてきたのであるが、人生の大きな青い鳥がいて、まだ捕まえていない。
大きな青い鳥を捕まえた時には、もはや青い鳥探しの心の旅路は終了するのである。
人生の究極の大きな青い鳥は「死」である。幸せは天寿を全うした人生そのものである。
それからは三途の川を渡り、極楽鳥を探す旅が始まる。