「俺がカラスは白いと言えば白いのだ」とは若輩者である会社の新任上司の発言である。私が「カラスは黒い」と反論して以来、人間関係は消滅した。非常識な発言と思い人間性を疑ったのである。薄給で過酷な労働条件で、誰にも出来る単純な仕事を長期間継続したというだけの功労で会社が決めた。仕事の質は問われない。会社方針の伝達役と労働組合の執行委員を兼務している。矛盾したシステムである。宴会の幹事役と同様な世話役である。
会社の管理職ではない。仕事は定年退職や仕事に挫折した高齢の人間の集まりで、歴戦の猛者の集団であるから、一筋縄ではいかない。その未熟な上司の独善・独断の施策は悉(ことごと)くピン呆けであるから、部下は行動を躊躇する。無政府状態で、自称上司というゲリラが何人も台頭、「船頭多くして舟、丘にあがる」様相を呈している。
原因はすべて上司の勘違いなのである。本人はようやく管理職に成れたと思っているのであるが、現実は、戯れ歌にある「先生、先生と威張るな先生、先生、生徒の成れの果て」である。時が来れば誰でも勤まるのである。会社組織も同僚も部下も皆、よく承知しているが、承知していないのは、本人だけである。
未熟な白いカラスは、若輩者の上司なのである。皆に苛められ、無視され、どうなることやら。せいぜい悩んで苦しむと良い。未熟な人間性の身から出た錆である。
立ち直る方法はある。禅僧の「窮すれば変ず、変ずれば通ず」という言葉である。窮地に陥ったなら自分の問題点を分析して、変化させなければならない。自分を変えると世間は驚きの目で見て物事がスムーズに流れ出すのである。蛇は脱皮しないと死ぬという。人生哲学を変化させ更新することを妨げられた精神も同様だ。そろそろ「攻撃は最高の防御」の哲学を放棄して、皆のお陰で生かされている自分に気が付く年齢である。本人が気が付くかどうか判らない。人の話を二倍聞き、話すのは一回でよい。耳が二つ有り、口は一つなのだ。
古今東西、人は色(もの)の世界に振り回される人生で、悩み苦しむが心掛け次第で如何様にも出来るようである。小さな物事に心を占領されていて、大いなる心が忘れられている。こだわらない心・とらわれない心・片寄らない心が、仏教の唯識で述べている哲学である。哲学の実践が宗教であるが、法相宗という宗派である。
会社の管理職ではない。仕事は定年退職や仕事に挫折した高齢の人間の集まりで、歴戦の猛者の集団であるから、一筋縄ではいかない。その未熟な上司の独善・独断の施策は悉(ことごと)くピン呆けであるから、部下は行動を躊躇する。無政府状態で、自称上司というゲリラが何人も台頭、「船頭多くして舟、丘にあがる」様相を呈している。
原因はすべて上司の勘違いなのである。本人はようやく管理職に成れたと思っているのであるが、現実は、戯れ歌にある「先生、先生と威張るな先生、先生、生徒の成れの果て」である。時が来れば誰でも勤まるのである。会社組織も同僚も部下も皆、よく承知しているが、承知していないのは、本人だけである。
未熟な白いカラスは、若輩者の上司なのである。皆に苛められ、無視され、どうなることやら。せいぜい悩んで苦しむと良い。未熟な人間性の身から出た錆である。
立ち直る方法はある。禅僧の「窮すれば変ず、変ずれば通ず」という言葉である。窮地に陥ったなら自分の問題点を分析して、変化させなければならない。自分を変えると世間は驚きの目で見て物事がスムーズに流れ出すのである。蛇は脱皮しないと死ぬという。人生哲学を変化させ更新することを妨げられた精神も同様だ。そろそろ「攻撃は最高の防御」の哲学を放棄して、皆のお陰で生かされている自分に気が付く年齢である。本人が気が付くかどうか判らない。人の話を二倍聞き、話すのは一回でよい。耳が二つ有り、口は一つなのだ。
古今東西、人は色(もの)の世界に振り回される人生で、悩み苦しむが心掛け次第で如何様にも出来るようである。小さな物事に心を占領されていて、大いなる心が忘れられている。こだわらない心・とらわれない心・片寄らない心が、仏教の唯識で述べている哲学である。哲学の実践が宗教であるが、法相宗という宗派である。