観音菩薩はインドの言葉サンスクリットで、あまねく・見る・自在者の合成語である。鳩摩羅什は観世音菩薩と翻訳したが、唐の二代目皇帝李世民の名の文字を使用することは失礼であるとする風習があり、世の文字が使用不能で、唐時代以後の中国大陸では観音菩薩と呼ばれるようになり定着した。西遊記の玄奘三蔵は観自在菩薩と漢訳した。
観音様は、世間のうめき声・泣き声・ため息の音から世相を観て(聞くのではなく)、励まし共に悲しむ慈悲の行動(大悲)が観世音であり、心の有様をこだわり・かたより・とらわれの無い自由な発想を勧めるのが観自在で、空観である。観音様のお堂は大悲殿と言う。
観音様の近畿の寺院を巡拝するのが『西国三十三所観音巡礼』である。
西暦718年、大和長谷寺の徳道上人は、病床の夢で閻魔大王から三十三箇所の観音霊場をつくり、人々に巡礼をすすめる、起請文と三十三の宝印を授かった。上人は仮死状態から蘇る「黄泉がえり」をして、三十三の霊場を設けるが、世の人の信用を得られず巡礼は発展しなかった。途絶えていた観音巡礼が約270年後、花山法皇によって再興されることになる。
第65代花山天皇は、在位わずか二年で絶世の寵愛美女の后の急逝で無常を悟り皇位を退き、19歳の若さで法皇となる。元慶寺で剃髪し、比叡山で修行し、書寫山の性空上人、河内石川寺の仏眼上人、中山寺の弁光上人等を伴って、那智山において修行し、西国観音霊場を巡拝し、観音巡礼を再興した。晩年は、摂津国花山院に住み、41歳の生涯を閉じた。観音巡礼の創始者といわれる徳道上人の晩年の僧房の長谷寺の近くの法起院と元慶寺・花山院が番外寺院として加わる三十六箇所の霊場巡拝が『西国三十三所観音巡礼』である。
平成7年に勤務先の滋賀県びわ町の竹生島の宝厳寺を訪ねたのが最初である。13年間訪ね歩いた観音様は平成20年の現在、京都府亀岡市の穴太寺と大阪和泉市の施福寺と番外札所の京都山科元慶寺を残すのみになっている。青春切符の残りがあるので、穴太寺と元慶寺を訪ねた。
穴太寺のある亀岡は、古くは亀山といい、伊勢亀山との混同を避けるために亀岡と地名を改めたため、亀岡城は正式には亀山城という。亀山城は織田信長に丹波平定を命じられた明智光秀が天正5年(1577)に丹波攻めの拠点として築城した。光秀は亀山城を拠点として丹波の波多野氏などを攻略するが、天正10年5月、信長に中国地方へ毛利攻めの豊臣秀吉の援軍として出陣を命じられると、安土城から亀山城に戻って出陣の準備を整え、6月1日に亀山城を出発した。山城国と丹波国の国境にある老の坂(老ノ坂峠)を下るや心変わりがして桂川から東に転じ、「敵は本能寺にあり」と軍勢に伝え、京都本能寺に逗留する織田信長を攻め、信長は火を放ち自刃した。世に名高い「本能寺の変」である。
変心の動機は、以前に記述したが、安土城で信長からの琵琶湖名物の鮒寿司に拘わる辱めの怨念であるとする説が気に入っている。犯罪の理由は些細なことが多く、些細なことを大切に扱わないと命を落とすことになる。
亀岡は保津川下りの起点の町でも有る。五木ひろしの渡月橋の京都の名勝嵐山まで16kmの渓谷を2時間で下る。瀬戸内寂聴の寂庵のある嵯峨野は近くである。
安太寺は山椒太夫の奴隷の安寿姫が厨子王に渡した小さな肌守り観音像があるというが、釈迦涅槃像が有名である。奇麗な掛け布団が暖かそうである。
元慶寺を訪ね、東本願寺に立ち寄った。親鸞聖人像を安置する御影堂は世界最大級の木造建築物で大修復工事中である。阿弥陀堂の木造建築の巨大さは荘厳で温かみがある。鉄とガラスの巨大建造物の京都駅。もの・かね時代の象徴である。
冬の青春切符の有効期限が迫り、残りは1回となった。最後の切札で第4番の難所の槙尾山施福寺を巡拝して13年に及んだ『西国三十三所観音巡礼』を結願としたいと思っている。
観音様は、世間のうめき声・泣き声・ため息の音から世相を観て(聞くのではなく)、励まし共に悲しむ慈悲の行動(大悲)が観世音であり、心の有様をこだわり・かたより・とらわれの無い自由な発想を勧めるのが観自在で、空観である。観音様のお堂は大悲殿と言う。
観音様の近畿の寺院を巡拝するのが『西国三十三所観音巡礼』である。
西暦718年、大和長谷寺の徳道上人は、病床の夢で閻魔大王から三十三箇所の観音霊場をつくり、人々に巡礼をすすめる、起請文と三十三の宝印を授かった。上人は仮死状態から蘇る「黄泉がえり」をして、三十三の霊場を設けるが、世の人の信用を得られず巡礼は発展しなかった。途絶えていた観音巡礼が約270年後、花山法皇によって再興されることになる。
第65代花山天皇は、在位わずか二年で絶世の寵愛美女の后の急逝で無常を悟り皇位を退き、19歳の若さで法皇となる。元慶寺で剃髪し、比叡山で修行し、書寫山の性空上人、河内石川寺の仏眼上人、中山寺の弁光上人等を伴って、那智山において修行し、西国観音霊場を巡拝し、観音巡礼を再興した。晩年は、摂津国花山院に住み、41歳の生涯を閉じた。観音巡礼の創始者といわれる徳道上人の晩年の僧房の長谷寺の近くの法起院と元慶寺・花山院が番外寺院として加わる三十六箇所の霊場巡拝が『西国三十三所観音巡礼』である。
平成7年に勤務先の滋賀県びわ町の竹生島の宝厳寺を訪ねたのが最初である。13年間訪ね歩いた観音様は平成20年の現在、京都府亀岡市の穴太寺と大阪和泉市の施福寺と番外札所の京都山科元慶寺を残すのみになっている。青春切符の残りがあるので、穴太寺と元慶寺を訪ねた。
穴太寺のある亀岡は、古くは亀山といい、伊勢亀山との混同を避けるために亀岡と地名を改めたため、亀岡城は正式には亀山城という。亀山城は織田信長に丹波平定を命じられた明智光秀が天正5年(1577)に丹波攻めの拠点として築城した。光秀は亀山城を拠点として丹波の波多野氏などを攻略するが、天正10年5月、信長に中国地方へ毛利攻めの豊臣秀吉の援軍として出陣を命じられると、安土城から亀山城に戻って出陣の準備を整え、6月1日に亀山城を出発した。山城国と丹波国の国境にある老の坂(老ノ坂峠)を下るや心変わりがして桂川から東に転じ、「敵は本能寺にあり」と軍勢に伝え、京都本能寺に逗留する織田信長を攻め、信長は火を放ち自刃した。世に名高い「本能寺の変」である。
変心の動機は、以前に記述したが、安土城で信長からの琵琶湖名物の鮒寿司に拘わる辱めの怨念であるとする説が気に入っている。犯罪の理由は些細なことが多く、些細なことを大切に扱わないと命を落とすことになる。
亀岡は保津川下りの起点の町でも有る。五木ひろしの渡月橋の京都の名勝嵐山まで16kmの渓谷を2時間で下る。瀬戸内寂聴の寂庵のある嵯峨野は近くである。
安太寺は山椒太夫の奴隷の安寿姫が厨子王に渡した小さな肌守り観音像があるというが、釈迦涅槃像が有名である。奇麗な掛け布団が暖かそうである。
元慶寺を訪ね、東本願寺に立ち寄った。親鸞聖人像を安置する御影堂は世界最大級の木造建築物で大修復工事中である。阿弥陀堂の木造建築の巨大さは荘厳で温かみがある。鉄とガラスの巨大建造物の京都駅。もの・かね時代の象徴である。
冬の青春切符の有効期限が迫り、残りは1回となった。最後の切札で第4番の難所の槙尾山施福寺を巡拝して13年に及んだ『西国三十三所観音巡礼』を結願としたいと思っている。