将棋の詰めと必至。やはり人間の問題解決の方法には二重性があるのだと思わされる。
久々の将棋。中学生当時と違って現在の自身の能力から学ぶと、どの様に学べるのだろうか?との興味を持って学んでみている。
具体的には、定跡は何と無く覚えているので終盤の実力=詰める実力を身につければ、そこそこ楽しめるにではと思い学び始めた。
その過程で浮上して来た問題が詰めと必至の問題である。端的には、将棋の究極の目的は相手の王を詰めることであるが、もちろん一方で自身の玉を詰めさせないということもあるが、詰めるのにも二重性があり、それが詰めと必至である。
詰めとは王手の連続で相手の王を詰めることであり、必至とは安易に王手をするのでは無く、必ず詰むという状況を作り出すことである。そして、将棋の世界では詰みよりも必至の上手な人が本当に強い、それこそがプロの強さである。と説かれている。
これは、自身の治療のありかたで言えば、詰みとは相手の病に対して働きかけて治そうとするものであり、必至とは相手の病に働きかけるのでは無く、相手の病が治っていく様な状態に相手のココロとカラダを整えていくことで治そうとするものである。と捉えられた。
やはり人間の問題解決の方法には二重性があるのだと再確認されるとともに、自身の東洋医学の本質の捉えかたの正しさの証明?である。と思えた。
久々の将棋。中学生当時と違って現在の自身の能力から学ぶと、どの様に学べるのだろうか?との興味を持って学んでみている。
具体的には、定跡は何と無く覚えているので終盤の実力=詰める実力を身につければ、そこそこ楽しめるにではと思い学び始めた。
その過程で浮上して来た問題が詰めと必至の問題である。端的には、将棋の究極の目的は相手の王を詰めることであるが、もちろん一方で自身の玉を詰めさせないということもあるが、詰めるのにも二重性があり、それが詰めと必至である。
詰めとは王手の連続で相手の王を詰めることであり、必至とは安易に王手をするのでは無く、必ず詰むという状況を作り出すことである。そして、将棋の世界では詰みよりも必至の上手な人が本当に強い、それこそがプロの強さである。と説かれている。
これは、自身の治療のありかたで言えば、詰みとは相手の病に対して働きかけて治そうとするものであり、必至とは相手の病に働きかけるのでは無く、相手の病が治っていく様な状態に相手のココロとカラダを整えていくことで治そうとするものである。と捉えられた。
やはり人間の問題解決の方法には二重性があるのだと再確認されるとともに、自身の東洋医学の本質の捉えかたの正しさの証明?である。と思えた。