「人間はいかに運動すべきか?」を年内には書き上げようと、焦りすぎての昨日のブログ記事であったと反省しきり。
それゆえに、一旦は昨日のブログ記事を非公開としたものの、今朝再度公開した。
端的な理由としては2つ。1つは、一旦はボツにしたものの、運動体というものが、生命の歴史においてどのように発展してきたのか?発展してきて現在の我々になっているのか、ということを概観することは、現在の自身を考える上での大切なこと、大前提となるべき、すべきことと。
そうでなければ、現在のうまくいっている状態も、うまくいかない状態も、何故にそうあるのか ? それがそうである大元は何なのか?が分かりようがないからであると思えるから。
もう一つは、自身のブログは結論だけを問う(プラトン)のでは無し、どのように考えて、そのような結論へとなっていったのかを、一言で言えば「究明の方法」をも問題としたい(アリストテレス)との思いがあるので、その過程を失敗をも含めて残しておくのも、必要であろうとの思いからである。(そういう意味では、読んでいただく皆さんも、思考の過程を楽しんでいただければと思う。)
さて、肝心の「人間はいかに運動すべきか ?」。
そもそも何故に、それを問うのか?という問題。
一つは、人間の健康は、それゆえ病は、その人の生活過程の結果としてあるものであり、いきなり降って湧いたように、健康や不健康や病になるのではなしに、必ずそこには過程がある。
そして、その過程の構造の三本柱とも言うべきものが、「食」と「運動」・「睡眠」であるから(薄井坦子)であり、もう1つの理由は、自身の問題として、直接には、この数年悩まされていた「膝痛」の問題が、「股関節重心」= 立つ・歩くの矯正によって完治し、のみならず、そのことを契機に、自身の何十年もの長きにわたっての繰り返す病や怪我の大元の原因は、立つ・歩くという当たり前のことができていなかったからなんだ!との思いとなっていって、結果として「人間はいかに運動すべきか ?」 ということが、その大元が、人間本来の「立つ・歩く」にあるのだと分かってきたからの、わかったと思えたから、の、そこを書いておきたい、それが自身の志であるMJHA(日本を再び健康な国に)ということにもつながる、との思いからである。
前置きが長くなってしまったが、人間はいかに運動すべきか ? を。次回から解いていきたい。
端的には、人間の運動体は、立つ歩くが歪んでしまうと、不健康から病へとなっていくのだ。というあたりから......と。