東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

「障害の二重構造」を手技療法術実践の指針とするには(増補)〜正常のイメージを持つことの大事性〜

2017-08-20 07:43:18 | 鍼灸理論・東洋医学
「障害の二重構造」という論理を手技療法術(鍼灸も含めて)の実践=施術の指針に、と考えるとき、それ以前の問題として、何を持って異常=障害とするのかということが問題となる。

そのためには明確な正常のイメージを持つことが必須のことであるのだが、通常はそれらは個々の治療者の自然成長性に任されてしまっている。それゆえに、同じ異常、同じ障害を見て、病気だから、障害だから仕方ないとなるかと思えば、治るから頑張りましょう!となる、ということが起こってくる。

ここで勘違いしないでいただきたいのは、何でもかんでも「治る!」としてしまうのが良いのでは無いということである。論理的には、「無知の知」(ソクラテス)あるいは「知之為知之不知為不知是知也」(論語)であり、現実には、不可逆=不治の病、障害というものもあるのだから、治るものを治るとし治らないものを治らないとするのが、本当の診断の実力ということである、と思う。

それはさておき、我々治療者が持つべき正常像は、まずアバウトに人間一般の誕生から死までの正常像=健康なありかたの像の正規分布であり、また、日本人一般の誕生から死までの正常像の正規分布であるが、それだけでは不足で、それぞれの患者の個としてのその人なりの正常像の正規分布も必要とされる、のみならず、病んだ状態の一般的、特殊的、個別的な正常像(と言っていいのか?)の正規分布もまた必要とされる。(それだけでは無しに本当は「生命の歴史」という正規分布の像をも重ねて視ることが求められるのでは、と思えるが……)

それらの正常像から現実の患者の病んだ状態を見て、はじめて異常というイメージが描けるし、その異常の「障害の二重構造」ということに分け入ってもいけるのだと思う。

そういう意味では、まずはアバウトな正常像をきちんと持つことが必要とされるのだが、そして自身の実践の積み重ねによってその正常像を豊かに、厚みのあるものに創り上げていかねばならないのであるが、そう考えた時に、「ライフサイクルモデル」(『ナースが視る病気』(薄井坦子著 講談社)を参照されたい)画期的な大発明であると、その意義、必要性、感じる。
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