『〔講演録〕生命の歴史から見た人間の頭脳活動の成り立ち』は、物事を学ぶ上での、それゆえ鍼灸を学ぶ上での本当に大事なことを説いていただいている、と思う。それゆえに、そこに説かれる論理が鍼灸の世界の常識へとなっていってくれることを願うのであるが……とはいえ、『〔講演録〕生命の歴史から見た人間の頭脳活動の成り立ち』を入手できない、あるいは自身の研究・実践で手一杯でありとても周りを見回す余裕などない、そんな暇などないという方も多数おられるであろう、との思いもあるので『〔講演録〕生命の歴史から見た人間の頭脳活動の成り立ち』の「はじめに──すべての物事を歴史生あるものとして見ていくことの大事性」で説かれることを(自身のレベルでになってはしまうのであるが……)簡単にでも説いておきたい。
「はじめに」では、「物事を歴史生あるものとして見ていくこと」とはいかなることなのかが、それは常識レベルで我々が理解している「歴史」とはまったく次元の違うものであることが説かれる。
ここで理解しておくべきことは二つ、一つは、物事は歴史生という視点で見てやるならば、その最初に基本的なありかたが出来あがって、それ以降はそれが様々に形を変えてあたかも別物のごとくに発展していったにしても、例えば生命体が単細胞から発展していって人間という似ても似つかないものへと発展しいっても、その最初に創られた基本的なありかたはどうにも変えられない。逆からいえば最初に出来あがった基本的なあり方が変わってしまえば、そのものは実存しえない。ということであり、それゆえの原点の大事性である。
もう一つは、物事は原点から高度に発展した現在に至るまでのいくつかの発展段階を持つが、必ず一つ前の段階を踏まえて、それを十分な実力として、しつつ次の段階への発展という何重にもの積み重ねを持たねばならないのであり、「いわゆる飛び級のようなものはでき」ないということである。(過去問主体の国試勉強の不味さは、そういうことなのであると思えるが……)
前者は例えば鍼灸でいえば、鍼灸は古代中国において、灸による補と鍼(砭石?)による瀉を、人体の寒熱に対応させて施すということを原点として誕生させられ、それが陰陽論を媒介として、鍼灸の術の体系へと発展させられていったものであるから、東洋医学(医術?)としての鍼灸は、「人体の虚実(寒熱)に対しての鍼灸による補瀉」という原点は、どうにも変えられない、そこを変えてしまうと東洋医学としての鍼灸としては実存しえなくなる。ということである。
後者は例えば、「陰陽五行論」を理解して使えるようになるためには、いきなりの現在ある複雑に発展した陰陽五行論の学びとして始めては、知識としてはともかくも実際に実践の指針としての役立つものとしての習得は困難であり、まずは陰陽論、そして五行論(説?)、その上にの陰陽五行論でなければならない。別の例では、例えば「脈診」にしても、脈診には脈診の歴史性があるのだから、いきなりの「六部定位比較脈診」では無しに、まずは「脈状診」それも四祖脈か六祖脈からの、でなければならない。と思える。
以上のごとくに考えてみると、鍼灸の現在ある混乱した状況も、「物事を歴史性あるものとして見ていく」という視点を持ち得ていないが故の、と思える。『〔講演録〕生命の歴史から見た人間の頭脳活動の成り立ち』を是非にと薦めるゆえんである。(『〔講演録〕生命の歴史から見た人間の頭脳活動の成り立ち』は『学城 第15号』(現代社)『障害児教育の方法論を問う(第2巻)』(志垣司・北嶋淳著 現代社白鳳選書)に収められている。また「生命の歴史」については『看護のための「いのちの歴史」の物語』(本田克也・加藤幸信・浅野昌充・神庭純子著 現代社白鳳選書)『「生命の歴史」誕生の論理学』(浅野昌充・悠季真理著 現代社白鳳選書)を参照いただければと思う。)
「はじめに」では、「物事を歴史生あるものとして見ていくこと」とはいかなることなのかが、それは常識レベルで我々が理解している「歴史」とはまったく次元の違うものであることが説かれる。
ここで理解しておくべきことは二つ、一つは、物事は歴史生という視点で見てやるならば、その最初に基本的なありかたが出来あがって、それ以降はそれが様々に形を変えてあたかも別物のごとくに発展していったにしても、例えば生命体が単細胞から発展していって人間という似ても似つかないものへと発展しいっても、その最初に創られた基本的なありかたはどうにも変えられない。逆からいえば最初に出来あがった基本的なあり方が変わってしまえば、そのものは実存しえない。ということであり、それゆえの原点の大事性である。
もう一つは、物事は原点から高度に発展した現在に至るまでのいくつかの発展段階を持つが、必ず一つ前の段階を踏まえて、それを十分な実力として、しつつ次の段階への発展という何重にもの積み重ねを持たねばならないのであり、「いわゆる飛び級のようなものはでき」ないということである。(過去問主体の国試勉強の不味さは、そういうことなのであると思えるが……)
前者は例えば鍼灸でいえば、鍼灸は古代中国において、灸による補と鍼(砭石?)による瀉を、人体の寒熱に対応させて施すということを原点として誕生させられ、それが陰陽論を媒介として、鍼灸の術の体系へと発展させられていったものであるから、東洋医学(医術?)としての鍼灸は、「人体の虚実(寒熱)に対しての鍼灸による補瀉」という原点は、どうにも変えられない、そこを変えてしまうと東洋医学としての鍼灸としては実存しえなくなる。ということである。
後者は例えば、「陰陽五行論」を理解して使えるようになるためには、いきなりの現在ある複雑に発展した陰陽五行論の学びとして始めては、知識としてはともかくも実際に実践の指針としての役立つものとしての習得は困難であり、まずは陰陽論、そして五行論(説?)、その上にの陰陽五行論でなければならない。別の例では、例えば「脈診」にしても、脈診には脈診の歴史性があるのだから、いきなりの「六部定位比較脈診」では無しに、まずは「脈状診」それも四祖脈か六祖脈からの、でなければならない。と思える。
以上のごとくに考えてみると、鍼灸の現在ある混乱した状況も、「物事を歴史性あるものとして見ていく」という視点を持ち得ていないが故の、と思える。『〔講演録〕生命の歴史から見た人間の頭脳活動の成り立ち』を是非にと薦めるゆえんである。(『〔講演録〕生命の歴史から見た人間の頭脳活動の成り立ち』は『学城 第15号』(現代社)『障害児教育の方法論を問う(第2巻)』(志垣司・北嶋淳著 現代社白鳳選書)に収められている。また「生命の歴史」については『看護のための「いのちの歴史」の物語』(本田克也・加藤幸信・浅野昌充・神庭純子著 現代社白鳳選書)『「生命の歴史」誕生の論理学』(浅野昌充・悠季真理著 現代社白鳳選書)を参照いただければと思う。)