前回は、カラアゲを食べるということの背後にはいかなる認識いかなる映像があるのか?を見ていった。
しかしながら、そこには反映の映像はあっても人間の人間たるゆえんである「問いかけ」の映像がなかった(というか「問いかけ」の映像も「反映」の映像も一緒くたにしていた)のではないのか ?という自身での反問を受けて、そこを見ていこうとして、それには問いかけのある反映(= 人間)と「問いかけ」のない反映( =動物)との違いを見なければ、そこを分かってはいけないだろう。として、そこを<生命の歴史>に尋ねる。というところまでであった。
そしてその場合に、人間の認識の原点である「魚の段階」と人間との対比で見ることが必要であろうとなったのである。
しかしながら、「魚の段階」を見るには、認識のない= 脳のない時代である、魚の前の段階の「クラゲ体」との対比で、クラゲ→魚という形で見ていかねば、魚の認識というもの、反映像というものも、生命体にとっての認識の誕生ということも見えてこないではないのか?というところまで、であった。
ということで、クラゲと魚に「カラアゲ」を食べてもらうというのが今回のブログ記事である。
まずクラゲ。クラゲは魚のように自在に泳ぎ回る(これも脳の誕生のおかげである)ということはできず、ただふわふわと海に漂っていて、たまたま「カラアゲ」がそこに流れてきた時に、空腹 =食の摂取の欲求があれば(脳がないので、本当は空腹ということもないはず)食物があると感覚してそれを取り込む。
そして必要なだけ取り込めば、それでクラゲの食べることは終わる。そういう意味では何とも味気ない「生命現象レベル」の外界の物質との化学反応と対して変わらないものである。
それに対して魚は、外界に存在する流れてきた「カラアゲ」を空腹であれば食物として反映させ、それに向かって泳ぎ食べる。
空腹が満たされれば空腹 = 食べたいという欲求が消えていき、食べるのをやめる。ということになる。
この場合、「カラアゲ!」ということではなしに、空腹を満たすもの食物一般ということなのだろうか?
「問いかけ」がないのであるから(食物一般ということで食物を探すということは、そもそも問いかけてきということなのであるから)、空腹 = 何かを食べたいという欲求があって、そこに食物としての「唐揚げというものが反映したからの、それに向かって泳いで行っての「カラアゲ」を摂取して、食べて初めて「カラアゲ」のそれなりの映像(と言うか、ここは感覚と言うべきか?)があって......。
(この項続く)