現代において東洋医学鍼灸の学びも学問的には科学的= 唯物論的でなければならない。その根本的理由。
端的には、現代社会に生きる我々にとってはそうでなければ対象の究明の深まり、冴えを持ち得ないからである。
科学的な鍼灸論を!と言うと、東洋医学は科学と相容れないとか。東洋医学は西洋医学とは全く別の学問体系だとかの反論をされる先生方がおられる。
それはそれらの先生方にとっては、先生方の思いとしてはそうであるかもしれないが、学問的にはそれではまともな発展は到底望めないと思う。
なぜかといえば、それでは頭の働きが二刀流になってしまうからである。
少し説明しよう。現代の社会というものは西洋科学的の物質文明の恩恵で成立している社会であり、東洋医学・鍼灸と科学は入れないとおっしゃられる先生方も含めて、科学的物質文明とともに、その恩恵を受けての生活を送っている筈である。
それに対して、昔々の古代中国では、社会的認識が観念論的で、生活に関わるあらゆることが観念論で一貫して説明されてる時代であった。
そうであるならば、鍼灸・東洋医学を観念論的に気から説いて(解いて)行ったところで、何の矛盾もないのであるが、現代社会においては、様々な問題を例えば気から説く(解く)ということは不可能である。
例えばテレビが壊れて映らなくなった時に、車が壊れて走らなくなった時に、それを気の問題で説ける(解ける)だろうか?説こう(解こう)とするだろうか ?
必ず科学的、物質的説明、原因究明を行うはずである。これはいかな東洋医学・鍼灸の大先生であってもと思う。
つまり、昔々には日常のもろもろのことも鍼灸・東洋医学も観念論的に一貫して解くことが普通にできた。
しかしながら、現代においては日常生活は科学的・物質的に、専門の鍼灸・東洋医学は観念論的・東洋思想的に解くという二刀流となるしかない。
ここは、生まれてから大人になるまで、そしてなってからも、物質文明に囲まれて科学的・物質的に育ってきており、通常は、東洋医学的・東洋思想的考え方は、迷信と呼ばれて馬鹿にされこそである筈である。
それゆえに、現代において観念論の立場、東洋思想の立場に立つといった場合は、その観念論的アタマの働きがしっかりと技化していきがたいのである。
それが現代において、鍼灸東洋医学もまた唯物論的・科学的でなければならないという根本的・認識論的理由である。
(ここは実は、唯物論的・科学的といった立場に立つ人も、一貫して、その立場に立つとも限らないのではあるけれども......。)
アタマに浮かんだことの覚え書である。ここは改めて解きたい。