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逍遥学派について辞書やネット検索では、 アリストテレスが逍遥(散歩そぞろ歩き)しながら、リュケイオンで講義や議論・討論を行ったことからの名称。とある。
また、その意義について「歩くことは脳に刺激を与えるから良いのだ!」とするものもある。
しかしながら、さはさりながら、言われること、書かれていることは間違いないとは思わないが、(古代ギリシャであるリュケイオンでの)歩くことが、頭脳活動を活性化するということは、そのような浅い捉え返しでいいのだろうか ? と思う。
これは単に思う。ではなしに自身の山鍛錬からの歩くということの実践からの、思うである。
このことについて、大学の先生を含めての、ほとんどの人に大きな誤解があると思える。それは何かといえば、アリストテレス(やソクラテス、プラトン等)の古代ギリシャの哲学者は現代のほとんどの大学の先生のごとくの青白きインテリ(失礼!)ではないということである。
アカデメイアやリュケイオンというものは、単なる哲学の殿堂ではなしに、闘技場の併設された文武両道の学びの場である。(ソクラテスは重曹歩兵としての戦功がある武人であったし、プラトンは古代ギリシャのレスリング(今のレスリングでは無しにパンクラチオンと言われる、戦場で実際に闘えるための殴る蹴る投げる絞めるなんでもあり)のチャンピオンでもあったということである。
つまり何が言いたいのかといえば、彼らの(アリストテレスやプラトンの)歩くということは、我々が思う逍遥(そぞろ歩き・散歩)ということではなしに、武術の鍛錬とともにの、あるいは武術の鍛錬の後にの、頭脳がそれによって強烈に活性化された上での歩くである。
また、当時の履物を考えても、裸足か裸足同然の足での歩くであり、足からの刺激ということだけを考えても現代の靴を履いて舗装された道を歩くのとは随分と違ったはずである。(この現代と古代ギリシャの違いについて運動体ということの。他にもう一つ大きなものに、食と大気の違いもあるのだと思う。
端的には現代日本の加工食品、欧米化した食 (= 本来の日本人の食とは違う)と車や工場、あるいはエアコンからの排気によって汚れた大気、に対して自然に近い、自然そのものと言っていい食と大森林の植物と総合浸透しての大気、ということの違いである。
そのような古代ギリシャの時代と現代とを単純に同じものと考えての逍遥学(そぞろ歩き・散歩)しつつ、考えることは脳に良い刺激があるとしての、歩く。では、座ったきりよりましではあろうが、とは思えるが......。
自身の山鍛錬からの帰り道の十数分の歩くということからの。その途上での逍遥学派についての、思いである。