(以下の記述は、自身が南郷先生に学んだと思うことを自分なりに理解したもの、あるいは自身の実践で確認し、考えたものであり、決してそれ以上のものではない。
それゆえに、本ブログに何某かの真理性が宿っているとするならば、それは南郷先生の偉大性ゆえであり、誤謬があるとすれば、自身の理解の不足、実力の不足のゆえである、と思う。
そういう意味では、本ブログの内容すべてがそうである、と思っている。念の為。)
さて、まずは「生命体にとっての食とは何か」から。
<いのちの歴史>に尋ねるならば、生命体というものは、三十六億年という気の遠くなるような昔々に、地球の物質現象であった生命現象が、地球と独立していって単細胞体となっていった、あるいは単細胞体となって行くことで地球と独立していった、ということに始まる。
しかしながら、その独立は絶対的な独立ではなく相対的な独立であったので、そうでないと、常に地球との一体性を保たないと、生命体は生命現象を維持することが出来なかったので、常に自身の外界である地球を取り入れて(自己化して不要物を排出して)行くこととなった。
それが、その地球と生命体との、生命体が地球との一体性を保つための摂取(と排泄の繰り返し=相互浸透)が、食の原点である。
それゆえに、食というもの、食ということを原点的に考えるならば、地球を丸ごと食べるべき、ということになろうか?
それゆえに、本ブログに何某かの真理性が宿っているとするならば、それは南郷先生の偉大性ゆえであり、誤謬があるとすれば、自身の理解の不足、実力の不足のゆえである、と思う。
そういう意味では、本ブログの内容すべてがそうである、と思っている。念の為。)
さて、まずは「生命体にとっての食とは何か」から。
<いのちの歴史>に尋ねるならば、生命体というものは、三十六億年という気の遠くなるような昔々に、地球の物質現象であった生命現象が、地球と独立していって単細胞体となっていった、あるいは単細胞体となって行くことで地球と独立していった、ということに始まる。
しかしながら、その独立は絶対的な独立ではなく相対的な独立であったので、そうでないと、常に地球との一体性を保たないと、生命体は生命現象を維持することが出来なかったので、常に自身の外界である地球を取り入れて(自己化して不要物を排出して)行くこととなった。
それが、その地球と生命体との、生命体が地球との一体性を保つための摂取(と排泄の繰り返し=相互浸透)が、食の原点である。
それゆえに、食というもの、食ということを原点的に考えるならば、地球を丸ごと食べるべき、ということになろうか?