東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

臨床実習での学び〜鍼灸施術の二重構造〜

2018-02-04 10:34:41 | 鍼灸学校での学び・国試勉強・受験勉強
 臨床実習を行った。自身が鍼灸に求めるものは何なのか、求めるべきものは何なのか、が明確になったと思える。

 昨夜は月一回の臨床実技の授業(下級生を患者にしての鍼灸の施術を行うもの)であった。
 一ヶ月ぶりのであり、かつ年末あたりから気持ちは卒業試験、国家試験へと向かっていた(に追われていた?)こともあって、鍼灸学校で教わる形での選穴・取穴というアタマの働きができず、自身の日々の手技(狭義の)の施術のありかたそのままにの鍼を打つ、であった。(これは、自身の現在の手技(狭義の)の施術のありかたそのままに鍼灸の施術を行うといかなることになるのか?との思いからの、でもあった。)

 それゆえに、担当教員から自身の打った鍼に対して、「この鍼は何経のどの経穴?」と問われても、そもそもが鍼灸学校で教わる選穴・取穴による鍼ではないので、「阿是穴です!」としか答えようが無かった、もう少し丁寧に答えれば、「全身の歪みから、加えて問診等からの患者の体の使い方の歪みを想定して、そこに人間体の構造、特に四足体と二足体との矛盾の構造を重ねて、そこにさらに自身の手技(狭義の)の施術の四半世紀分の経験を重ねて、加えて経絡経穴の知識を重ねての、この辺りにコリ、ハリ、硬結等が出るであろうとの予想から触診で確認しての、阿是穴」に対しての、ということになるのであるが、この説明では担当教員に理解してもらえるとも思えず......。
 
 しかしながら、以上の如くの鍼灸学校で教わる選穴・取穴のありかたからすればデタラメ?な選穴・取穴による施術でも劇的?といえるほどにの症状の改善があるのであるから、(自身にとって)鍼灸学校で学ぶ選穴・取穴の方法は必要なのであろうか?と改めて考えさせられた。

 そのような思いもあって、鍼灸の施術というものを改めて考えてみると、過程的構造的に考えてみると、それは一般的には(本質的には?)「経穴に鍼を打つ(灸を据える)」ではあるがそこにはしっかりと二重構造があるということに気づかされる。(にもかかわらず通常はそれを一重構造としてしまう現実がある、それは端的には鍼灸には鍼や艾があるからなのであるが、そこは改めて説きたい)

 その二重構造とは、一つは鍼(灸)を行う部位=経穴を決定する、つまり選穴・取穴であり、もう一つは、その選穴・取穴した経穴への鍼を打つ(灸を据える)である。
 これは例えれば、武道・武術において、対手の隙を見つけ(選穴・取穴)そこへ技を出す(鍼を打つ、灸を据える)のと同じことであり、別の例でいえば、調理において、素材全体のありかたから塩加減等を決定(選穴・取穴)して、塩を入れる(刺鍼・施灸する)のと同じことである。その場合に、塩加減の決定ということの大事性とともにどのタイミングで、どんな塩を使って塩加減をするのか、例えば小笠原の塩なのか沖縄の雪塩なのか、それともゲランドの塩なのか、はたまた人工的に(工業的に?)作られた食塩(NaCl)なのか、ということも、料理の味を大きく左右するものになる、ということと同じことである。

 その例え話でわかっていただけるであろうのと同じくに、鍼灸においても選穴・取穴というのは大問題である(からこその脈診をはじめとする様々な選穴・取穴法の存在である)、とともに、どのような鍼(艾)を使って、どのように刺鍼(施灸)するかは、これまた別の大問題(であるにもかかわらず、鍼灸の世界では後者の大事性はそれほどに意識されていないように思える)であり、両者相俟って見事な鍼灸の施術ということになる、筈である。

 そのような二重構造を持つ鍼灸の施術であるが、その内の後者の刺鍼・施灸という部分は、鍼灸の場合は(指圧・整体等(狭義の手技)と違って)経験を積むことでなんとかなっていくもの(何せ自身の五体を技化していかねばならない指圧や整体と違って、鍼灸は鍼や艾という他人が創ってくれたものが技の大半をしめるのであるから)であるのに対して、選穴・取穴というものは、初心者にとっては大変に苦労する部分である(単なる阿是穴を探すことすらが初心者には大変なことである。見てわからないだけで無く、触ってみてもわからないというのが通常の初心者というものであるのだから)、それだけに、脈診だとか腹診、舌診等の診断法が様々に工夫された何千年もの鍼灸の(東洋医学の?)歴史が存在するのだと思える。

 しかしながら、それら選穴・取穴は、いわば「空想的鍼灸論・空想的鍼灸術」であり、それゆえに、「それなりにの偉大な成果を含みながらも......現実の科学的分析を欠く」ものである、と思えるだけに、そこから学んでいくことは必要ではあっても、その「空想的」な部分はその空想の原点に立ち返って再検討してみることで、どのように考えてそのような結論を出したのか、と考えて見ることで、再検討してみることが必要であって、そのままにもらってしまう(という乞食根性的な学び)ということであってはならないと思える。

 それだけに、自身の現在の、現実の施術(鍼灸の)というものは、それら過去の文化遺産の学びとは相対的独立に、のものであっても良い、のだと思える。
 そのように考えて、自身の鍼灸の施術のありかたをイメージしてみると、昨夜試したところの、現在の自身の手技(狭義の)の施術を鍼灸で行うことが、イメージされる。そしてそう考えると、自身が先ずはしっかりと学ぶべきもの、求めるべきものは選穴・取穴よりも刺鍼・施灸の技である、と思える。
 そのことを実践していくことで新たな問題点も浮上させられるのではないか?と思える。
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