東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

(加筆)「片手挿管」〜伝統的?修業法の持つ二つの意義〜

2024-10-31 08:42:00 | 鍼灸術・手技療法術
(2015/5/5、入門時に、肝に銘じて欲しいこと)

 「片手挿管」学びました。伝統的?修行法の持つ二つの意義をしっかりと分かって取組むことの必要性感じます。

 待望の鍼灸実技の初日に「片手挿管」学びました。鍼灸が専門で無い方の為に簡単に解説しますと、「片手挿管」とは、鍼灸で使う鍼を鍼管に入れる手技のことで、その操作を片手で行なうところから「片手挿管」と呼ばれています。当然、両手で入れれば「両手挿管」と言うことになります。
 この「片手挿管」、簡単なようでやってみるとなかなか難しいもので、同級生でも数人の例外を除いては「難しい!」と自身の手指の不器用さに悪戦苦闘して、「ツボを覚えて、そこに鍼を打てばそれで治療が出来る。」位に思っていた鍼灸のイメージが大きく変えられて行った様に思われます。

 その鍼灸実技の授業の話を職場の鍼灸師の先生に話したところ「今はディスポ鍼全盛だから現実に『片手挿管』することはまず無いんだけれどね。」と前置きした上での「『片手挿管』難しい方が良いと思うよ。私の同級生でも、最初から器用に『片手挿管』が出来たやつは、鍼灸舐めちゃうから大抵、鍼灸から離れて行ってるからね。」とのコメントもらいました。
 この鍼灸師の先生のコメントに「どうして使わない手技の習得に、短い3年間の内の一ヶ月を使うのか?その上、「片手挿管」が前期の実技試験の内容でもあるというのはどういうことなのか?」と疑問に思ったのですが、続けての「『片手挿管』器用に出来るやつは大抵ダメに成って行く」とのコメントに「そういうことか!」と「片手挿管」の持つ意義、納得させられました。

 自身のその時に理解したことはどういうことかと言えば、端的には「片手挿管」の持つ大きな意義の一つは「鍼灸を舐めるな!必死の思いで修業しろ!」との鍼灸の初心者に対する戒めであり、いわば通過儀礼であるのだということです。
 これは、どの専門分野であれ、いやしくも専門分野というからには、日常レベル、素人レベルとは質的に大きく違った厳しさや深さがあるのが通常ですから、その道の初心者は入門初日か、遅くとも少し慣れた頃に「ガツン!」とその道の厳しさを思い知らされる必要があるということです。

 例えば看護における清潔操作、例えば空手における「押忍!」という気合・挨拶、例えば料理における洗い物等々を通して、初心者はその道の厳しさを先輩等から厳しく教えられ、その道の厳しさを心に深く刻んでのそれ以降の修業、学びを行なっていくことで一人前の専門家へと育って行くべきであるということです。
 それだけに、そういう経験をせずに幸(不幸?)一杯に専門の道に入って行った人はどうなっていくのか?という問題でもあります。

 これは技術論的・認識論的にいえば、技というものはその技を学んでいる当人の認識が作るのであるから、如何なる技に育って行くかは、そこにかかわる当人の認識が決めてしまう面が大なのであるから、その道の修業の始めに、しっかりとその道の厳しさを心に刻んでおくのでなければ、まともに一人前には育って行き難いということです。
 また、技に関わる認識というものは、その技に関わっての最初の認識を原点として、そこから技に対して問いかけ・反映させるという過程のくり返しで、育って行くものですから、二重の意味において、専門家への道の最初に、その厳しさをしっかりと心に刻む・刻ませるということは大事であるということです。
 以上説いて来たことが「片手挿管」の持つ二つの意義の一つである認識論的な意義です。

 では、もう一つの意義とは何かといえば、脳・神経の生理的な面での意義です。それは端的には「片手挿管」で不器用で動き難い手指を、必死に頑張って動かすということが、脳・神経の実体・機能としての成長を促してくれると言う面です。
 ここの構造は、いずれ生命の歴史を踏まえる形で「出来ないことを出来る様に頑張ることの大事性」として説きたいと思います。

 以上を要するに、「片手挿管」出来ないからと悲観することは無いのだ!簡単に出来ないでショックを受ける程に、そのことを心に深く刻んで必死に頑張れば一流の鍼灸師への道が開ける筈だから頑張りましょう!ということであり、簡単に出来た人程、用心しないと鍼灸を舐めてずっこけてしまいますよ!ということです。

 今回もブログという形式としては長文になり過ぎ、読みづらく成ってしまっている様ですので、ここまでとします。
 
【これは本当によく書けている(自画自賛🙏)と思う。丁寧に事実を見て、論理を引き出す、である。
 しかしながら、その論理、どこかからの借り物では無いのか?という気がする。
 学んだ論理の再措定という意味での第一歩としては、満点かと思うが、問題はここからである。
 また、ここに説かれていることは、鍼灸初心者の皆さんには、肝に銘じて修業に励んでいってほしいこと、と思う。同じくの鍼灸学校3年間の学びに同じくに取り組んでも、そこに関わる認識如何で3年後には大きな差となっていくのですから。端的には、技はココロが創る!ですから。】
 

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