MJHA(日本を再び健康な国に)〜東洋医学の実践的理論研究~

MJHA(日本を再び健康な国に)という志で、食・運動(姿勢)・休息(睡眠)に関わる問題等を論理的に説きます。

「思索への示唆」を読む〜ナイチンゲールの言葉の背後にあるもの〜

2017-09-19 22:33:21 | 看護学・医学
 「思索への示唆(抄)」(ナイチンゲール著 薄井坦子訳『ナイチンゲール著作集 第3巻』所収 現代社)を読んだ。思弁とはかくの如きことを言うのでは、とそのイメージが膨らんだとの思いする。

 東洋医学を科学的な体系として創っていくためには、まずは科学的な学問体系というもののイメージをできる限り具体性あるものとして描かねばなら無いとの思いから、『科学的看護論 第3版』(薄井坦子著 日本看護協会出版会)を読み返している。その中で、「……ナイチンゲールは一般論の有用性を十分知りつくした人であったことが分かる。このことは、『看護覚え書』を出版する前に著した文献のなかに、一般論を媒介にして論を展開している記述の多いことからいえることである。」として「『ナイチンゲール著作集 第3巻』の「思索への示唆」に顕著である。」との註がついていたことから興味を持って「思索への示唆(抄)」を読んだ。

 一読しての感想は、「なにがなんだかわけがわからない」であり、「言葉だけがアタマの中を素通りしていくのみで何のイメージも描けない。」「とにかく難しい!」であった。感覚的には、『哲学以前』(出隆著 講談社学術文庫)や『形而上学』(アリストテレス著 出隆訳 岩波文庫)を初めて読んだ時のものと同じであった。

 そんな自身に『思索への示唆」を分かっていく道を示してくれたのは薄井先生による巻末の「解題」であった。「解題」では以下のごとくに説いていただいている。

  「「人は皆、神の真理とは何かについて判断できるようになるためにこそ、各人の持てる力を鍛えかつ教育されねばならないのである」と(ナイチンゲールが……ブログ筆者)述べているように、こうした立場からナイチンゲール自身が自分はいかにあるべきなのか、何を見つめ、それらをどのように考え、どのように行動すれば、自らを許すことができるのだろうか?と厳しく問いをくり返しているかのような論のすすめ方が(「思索への示唆」には……ブログ筆者)ある。むしろ、この執筆を通して彼女の思想的立場・研究的立場の土台が確固たるものになったのではないか、と考えることさえできると思われる。」
 「ナイチンゲールの他の著作の多くが、人間の具体的な生活状況を生き生きと描写しつつ実体として展開されることが多いのに比して、この著作は、人間の認識そのものを真向からとりあげた異色の著作なのである。」
 「第一章は「神を信じること」であって、本書がナイチンゲールの宗教観といわれる由以でもあるが、その展開はまことに論理的であって、むしろ認識論であるといえよう。」
 「さらに注意して読むならば、こうした提示の仕方に一定の運びがあることに気づくであろう。すなわち、これらの指摘を観念として提示するのではなく、必ず事実の提示があり、その事実の示す問題を明らかにし、それらから論理を導き出すことによって問いかけるという手法である。
 この手法は他の章にも多く見られる方法であって、まさに科学的な方法論そのものである。おそらくナイチンゲールは、この手法によらなければ安定感を持つことのできない人であった、いやこの手法を完成してはじめて安定感をもって仕事に打ち込むことができるようになったのではないかと……」
 「ナイチンゲールにとっての神は、永遠に求めつづける真理そのものであって……」(ここについては、「ナイチンゲール著作集 月報3」では、「ナイチンゲールにとっての宗教と私にとっての科学とは、宇宙を支配する法則の制定者を想定するかしないかの相違を除いて、他は全く重なりあうということである。」とも薄井先生は述べられている。)


 これら薄井先生が説いてくださっていることを読んで、「思索への示唆」を再度読んでみると、その論の展開をハッキリと、というわけには未だいかないのであるが、薄ボンヤリとながら見えてくるような気がする。
 それとともに、ナイチンゲールのアタマの働きについて思ったことがある。それは、ナイチンゲールは「思索への示唆」で、神について、真理について、宗教について……くり返しくり返し、様々な角度から、事実をあげ、それらの示す問題を明らかにし、そこから論理を導きだすという作業を、延々とくり返していくという、自身(ブログ筆者)にとっては気の遠くなるような作業を行っているが、これこそが「思弁」ということなのではないのか!?ということである。

 また、ナイチンゲールの他の著作でも、そのような思弁(=無限といってもいいくらいの問題の様々な角度からの捉え返しの繰り返し)が、簡単に説かれてある(と思える)言葉の背後にあるのではないのか?ということである。ナイチンゲールの著作の一言一言に重み、深みがあると思えるのは、そういうことなのではないかと思えた。それだけに、自身のレベルでナイチンゲールの説くことを浅く読み取ってはならないのだとも思えた。
 
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