新聞で、「我々生物は海から生まれました。」として、鹹(塩)の不足が多くの病の原因であるから、適度に鹹を取ることが健康に、治療に役立つ......とする漢方の先生の本が広告されていた。東洋医学で、そんな説明をしてしまっていいのだろうか?と思える。
現在の西洋医学では、塩は悪(例えば高血圧や腎臓病等々多くの病の原因となるとされている)でありその摂取は可能な限り減らすべきであるし、そのことが健康を保つ為には必須である、とされている様に思う。
しかしながら、塩というものは生命体が生きるのに不可欠なものであるのだから、一定量は必要であるのだから、当然に塩の行き過ぎた制限は欠乏症としての病を引き起こす。
そこから、しっかりと必要量の塩を摂取すべきとの主張が当然になされることとなる。これは、(塩を悪とする)西洋医学へのアンチテーゼとしても、であるだけに、西洋医学↔︎東洋医学という図式を描く東洋医学の先生たちからも、塩をしっかりと摂るべし!との主張が当然にあるのだと思う。
それはそれで構わない、というか自身でも適度の塩の摂取は必要だと思っているのだが、問題は、東洋医学の立場にある、かつ東洋医学と科学は相入れないとする先生たちの塩の必要性の説き(解き)かたである。
端的には、「我々生物は海から生まれました。」と、科学的、唯物論的に言ってしまっていいのだろうか!?ということである。
「生物が海から生まれた」と言うことは、少なくとも人間というものが、海の生物から進化していって現在の人間になった、ということであり、話は飛ぶが、人間の解剖生理も西洋医学的なものを正しいとして、海の生物から変化する地球との相互浸透によって進化していった結果としての人間の解剖生理として、かつその機能としての蔵象や経絡経穴等々として東洋医学を再構築していく......ということが求められるのでは、と思える。
そのような労苦を嫌がるのならば、「生物が海から生まれた」と説くことが、如何に説得力のある説きかたであると思えても、そこは我慢して、鹹(塩)は五臓の腎に対応し、腎は精を蔵し、生きる源であるから、塩は腎の働きを助け......等と説かねばならない、説くしかない、のだと思う。
にもかかわらず、安易に二刀流となっていくのでは......。
現在の西洋医学では、塩は悪(例えば高血圧や腎臓病等々多くの病の原因となるとされている)でありその摂取は可能な限り減らすべきであるし、そのことが健康を保つ為には必須である、とされている様に思う。
しかしながら、塩というものは生命体が生きるのに不可欠なものであるのだから、一定量は必要であるのだから、当然に塩の行き過ぎた制限は欠乏症としての病を引き起こす。
そこから、しっかりと必要量の塩を摂取すべきとの主張が当然になされることとなる。これは、(塩を悪とする)西洋医学へのアンチテーゼとしても、であるだけに、西洋医学↔︎東洋医学という図式を描く東洋医学の先生たちからも、塩をしっかりと摂るべし!との主張が当然にあるのだと思う。
それはそれで構わない、というか自身でも適度の塩の摂取は必要だと思っているのだが、問題は、東洋医学の立場にある、かつ東洋医学と科学は相入れないとする先生たちの塩の必要性の説き(解き)かたである。
端的には、「我々生物は海から生まれました。」と、科学的、唯物論的に言ってしまっていいのだろうか!?ということである。
「生物が海から生まれた」と言うことは、少なくとも人間というものが、海の生物から進化していって現在の人間になった、ということであり、話は飛ぶが、人間の解剖生理も西洋医学的なものを正しいとして、海の生物から変化する地球との相互浸透によって進化していった結果としての人間の解剖生理として、かつその機能としての蔵象や経絡経穴等々として東洋医学を再構築していく......ということが求められるのでは、と思える。
そのような労苦を嫌がるのならば、「生物が海から生まれた」と説くことが、如何に説得力のある説きかたであると思えても、そこは我慢して、鹹(塩)は五臓の腎に対応し、腎は精を蔵し、生きる源であるから、塩は腎の働きを助け......等と説かねばならない、説くしかない、のだと思う。
にもかかわらず、安易に二刀流となっていくのでは......。
>安易に二刀流
元々は「観念論的世界観」なのに、
所々を「唯物論的世界観」に頼ってしまう。
自分の都合での世界観の使い分け…
論理的一貫性の欠如ですね。
使い分けならばまだ良いのですが、唯物論なのか観念論なのかの反省も無いままの、その必要性も感じないままの、自分に都合の良いもののつまみ食い的な、と思えます。
それだけに、東洋医学を筋を通して学ぼうとする初学者は、混乱してしまい、東洋医学は難しい!となっていくのでは、と。
同感です。
無自覚・無意識が一番マズイ・罪ですね。