MJHA(日本を再び健康な国に)〜東洋医学の実践的理論研究~

MJHA(日本を再び健康な国に)という志で、食・運動(姿勢)・休息(睡眠)に関わる問題等を論理的に説きます。

「弁証法は一般的な運動を扱う学問であるということ」について(増補)〜事実と論理の区別の問題〜

2017-04-10 22:03:32 | 哲学(世界観・弁証法・認識論・論理学)
 まずは、『新・弁証法・認識論への道』(『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第二巻』所収 現代社)の問題となる箇所の引用から

  「もう一度、しっかりと説いておきます。 弁証法は全世界の一般的な運動、つまり、一般的な変化、すなわち、一般的な生生かつ生成発展を扱う学問です。弁証法性とはそれら運動・変化・発展の一般的な性質のことをいいます。端的には、弁証法性とは一般的な運動であり、それを法則として把握するのが学問としての弁証法なのです。
 したがって、一般的には「万物は流転」するものである以上、すべての事物・事象、つまり、森羅万象すなわちすべてのことがらには弁証法性が宿っているのです。その運動・変化・発展の一般性をみてとる弁証法性を無視ないし等閑視するということは、森羅万象=万物=自然・社会・精神の運動性・変化性・発展性に目をとめないということになります。
 端的には、弁証法を修得できなかった、結果として弁証法の実力がつかなかった学者・研究者たちは、森羅万象=万物=自然・社会・精神をなんら運動の一般性をもたないものとして、極端には運動を度外視して、研究してしまうということです。
 このように説きますと、「冗談ではない!私はしっかりと自分の専門を発展性において研究しているぞ。なにをたわけたことを!」と怒る研究者(自称学者)が数多くいるはずです。
 では、この自称学者先生は正しいことをいっているのでしょうか。結論からいえば、まちがいです。それは以下のことだからです。
 この研究者が述べる専門の発展性とは、自分の研究が発展するように、とか、自分の研究の対象である事実がなにかによって変えられるとかの、単純な事実の変化が新たに起こる、あるいは起こしているといったレベルのことがらだからです。
 たしかに弁証法性とは、簡単に説けば変化するという性質のことなのですが、しかしながらこれは事実そのものを直接に扱うレベルでこの用語は用いられるのではありません。
 すなわちその扱う事物・事象の直接的事実の個別性の変化とか発展レベルでいうのではなく、事物・事象の一般性たる変化・発展からその事実の個別性をみてとることをいうのです。あるいは逆に、その事実の個別性のなかに、事物・事象の発展・変化の一般性をみてとることでもあるのですから。
 したがって、個別的事実の変化そのものをみてとっても、それは弁証法的なわけでは、すなわち学問的になるわけでは、けっしてないのですから。
 なぜかというまでもなく、弁証法性とは森羅万象=万物たる事物・事象の一般的な変化・発展性としてのその法則性レベルの現象をいうのですから。それゆえ弁証法性とは、万物=自然・社会・精神の運動(変化・発展)の一般性あるいは一般的運動性を究める学問なのですから。」(以上、『新・弁証法・認識論への道』からの引用)


 この箇所を、昔々に読んだときには、「個別の事象の変化そのもの」と「事物の一般的な変化である弁証法性」との違いが、言葉としては違うとはわかるものの、その具体の、表象の像が描けなかった。また、弁証法を修得できなかった研究者の誤解のどこが不味いのかも理解できなかった。結果として何度か読み返してみても、「同じことなのでは?」としか思えなかったし、「何が不味いのだろうか?」との思いを持ってしまっていた。しかしながら、南郷先生が説かれているからには……との思いも強くあった。そしてそれはその後、長きにわたって何度やってみても......であった。
 それが、卒業研究として耳鍼の減量の効果ということを統計学的にあつかうとともにの統計学の実践的な学び直しをおこなったことの結果として、この箇所に説かれてあることが、統計学でいうところの正規分布するものとして個別のサンプル群をみてとること、あるいは個別のサンプル群から無限母集団の正規分布を推定していくことと、また、弁証法を修得できなかった研究者のありかたは、素人的には統計学らしきみえそうな形式で、個別の被験者の体重の増減を「有意差」という言葉の誤用とともに云々して、あたかも統計学的研究であると錯覚してしまっている研究者のありかたと、同じ論理が述べられているのではと思え、読み返すことでようやくにイメージすることができた、と思えた。というのが、自身にとっての弁証法にかかわる大発見、認識の発展の中身である。

 あらためてそのことを原文の引用とともに書いてみると「個別の変化」と「弁証法性」との違いということが分かりえなかった、イメージできがたかったという自身のアタマは、要するに「事実と論理の区別」ということを言葉としては知っていても、その中身はなにもなかったということであったのだと思える。
 それだけに、自身がそのことをわかるためには統計学の実践的学びのおかげがあったと思えたということは、半分は本当であるがそれだけでは不足であったと思える。
 では、なにが不足していたのかといえば、古代ギリシャ哲学の学び、とくにプラトン・アリストテレスの学びであると思える。
 この何年かにわたって、悠季先生の説かれる古代ギリシャ哲学の誕生からその発展を、とくにプラトン・アリストテレスのアタマの中身をその生成発展の過程として学ばせていただいたことでの「事実と論理の違い」「事実から論理へ」ということが、おぼろげながらにもイメージできてきていたからこその、であったと思う。

 今回の自身の「弁証法の像」の発展をあらためて原稿用紙に書いてみると、「書くことは考えることである」ということをパソコンやタブレト端末での入力することとの違いとして、「やはり大切なことは原稿用紙に万年筆で書かねばならないのだ!」とその必要性が実感された。
 
 また、その中身についても、当初は大発見レベルのこと(自身にとっては)と思えたのではあるが、書くことで客観化してみると、自身にとっては大発見には違いないのだけれども、それは要するに「事実と論理の区別」ということの像が今頃になってようやくにでしかなかったのだと、もしかしたらブログを読んでいただいている大多数の方にとっては、今更なにを、となっておられるであろうと......。

「増補」として、個別の被験者の体重の増減を云々することを「有意差」として、あたかも統計学的に対象をみてとっていると錯覚してしまっている、耳鍼の研究、研究者の下りを付け加えた。全部書き直しする時間の余裕が現在無いので、つながりがちぐはぐな感もあるのだが、その下りを加えた方が自身のイメージがより明確にわかっていただけるであろう、との思いからである。文章の不味さには目をつむって、内容をくみとっていただければ、と思う。

『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第二巻』

 

 
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