時の経つのは早いもので、本ブログも5年目に突入している。本来は(当初の思いとしては)、鍼灸学校三年間の学びをその実践とともに書き、その後にその総括を為(成)して本ブログは終わるはずであった。
しかしながら、自身の実力不足から鍼灸学校での学びの総括がしっかりと出来ないままに一年以上もの時が流れていってしまっている。然は然りながら、そろそろ本ブログも終わるべきと思えている。それゆえ、一度、ほぼ全部を非公開にして残すべきと思える記事は再度公開して、と思います。(自身の多忙ゆえ、この作業もすぐにというわけには行かないと思いますが......)
今後の予定としては、新たに(おそらく場所を変えて)『鬱に克つ食事と運動』と題して、「食事と運動の記録」と「日記」と「覚え書」とのカテゴリーで書いていこうと思っています。おつきあいいただければ幸いです。
4年余の長きに渡ってお付き合いいただいた方々には、心からの感謝の意を表します。長らくありがとうございました。
しかしながら、自身の実力不足から鍼灸学校での学びの総括がしっかりと出来ないままに一年以上もの時が流れていってしまっている。然は然りながら、そろそろ本ブログも終わるべきと思えている。それゆえ、一度、ほぼ全部を非公開にして残すべきと思える記事は再度公開して、と思います。(自身の多忙ゆえ、この作業もすぐにというわけには行かないと思いますが......)
今後の予定としては、新たに(おそらく場所を変えて)『鬱に克つ食事と運動』と題して、「食事と運動の記録」と「日記」と「覚え書」とのカテゴリーで書いていこうと思っています。おつきあいいただければ幸いです。
4年余の長きに渡ってお付き合いいただいた方々には、心からの感謝の意を表します。長らくありがとうございました。
私としては全く悪気のないコメントをしたつもりでしたのでブログ主のその後の反応にただただ驚くばかりでしたが、「互いに罵り合いになるだけ」との言葉にブログ主の怒りと私のことを罵る用意があることを悟りました。
私はブログ主に対して何ら悪意などもってはいませんでしたし、一年生として東洋医学概論で始めに学ぶ黄帝内経に書かれた「鍼灸治療を行う者は心穏やかで気性が繊細なること」との倫理性を看護学生が学ぶナイチンゲールの精神の如くに盾にして歯向かうつもりもありませんが一つだけ述べさせていただきたく思います。
それは私のことをチクリとコメントした後でブログ主が短期間に頻繁に記事を更新したことです。それは、おそらくは読んでいるであろう読者である私を楽しませようとの意図も含まれていたでしょうから、そこは素直に感謝の意を表したいと思っています。
時として辛辣とも受け取れるコメントをなさるブログ主ですが根はお優しい方だと感じていますから、私のほうのことも察していただいてるのではないかと願っているのですが、私はブログ主のように学校や各種の講習会で学んだことを惜し気もなく垂れ流しにすることが出来ないのです。
それは私個人の度量の大きさということでなく関係各所の意向がありますので。
ですが一つ述べさせていただくとブログ主と私とで共通の関心事となるやも知れない「弁証法」というのは自分と違う他人への関心から生じてくるところがありまして、自分のことしか考えていなかった時には気がつかなかった「あれ?あいつは私と違ってあんなことやってるな」という「差異」を正当なものとして整理するところにも弁証法というものが成立するのだと考えています。
具体的な事例で述べますと既に非公開にされた記事が多いこのブログでは2015年のブログ主の一年生のときの学びが記録されておりましたが、確か私の記憶ではそちらの学校では東洋医学概論は4月の最初から講義があったが経絡経穴概論は9月だかの後期から始まったように覚えています。
ですが、私の学校では東洋医学概論と経絡経穴概論とは4月から同時平行で学んでいっているのです。
学校での指導は同じ教科書を用いるとはいってもどう教えていくかは学校ごとに先生たちの創意工夫に任されているようで、どれが良くどれが悪いとは即断できませんが、私の学校での教え方だと教科横断の関連性や今日学ぶページの何十ページ先、百数十ページ先に書かれた内容との縦断的な関連性を特に強く意識させられるように感じています。
ブログ主の記事には内経医学会の佐合先生のお名前がありましたが私は関東で佐合先生の同窓の先生とも懇意にさせていただいてますし、東洋大学で防具空手をやっていた今は兵庫で整骨院を営まれている黒田先生とも面識がありますのでツマラヌことで争い事にしたくありませんので、それはご了承いただきたく思います。
ブログ記事にも書きましたが、本来なら一年くらい前には、本ブログは終わるべきはずのものでした。それが自身の実力不足からしっかりと総括出来ないままの日々が続いていました。
それ以上に、鍼灸学校在学当時のブログ記事を読むと現在よりも論理のレベルが高いのでは?とも思え、内心、忸怩たる思いでした。これは思うに、1ヶ月とかせめて数ヶ月の間に、しっかりと総括すべきものを諸々の事情があったとはいえ、延ばし延ばしにしてしまった罰である、と思えます。
その学びの総括も、書いておくべきことはそれなりに書けたと思えている現在です。
そんな時に貴兄からコメントをいただき、同様のコメントをブログ開設当時から何度かもらっていたので、「またか!?」と、ウンザリとした気分になったことは間違いないのですが、それと今回のブログ閉鎖へ向けての諸々のこととは直接には無関係です。
というか、自身の周囲には、鍼灸や東洋医学を弁証法、認識論で、という方は皆無であり、南郷先生や南郷学派の存在すら知らない、興味がないと言った状況ですので、いただいた再度のコメントに、東洋医学や鍼灸を弁証法に興味を持って真面目に学んでいる方がおられると知り、驚き、かつ嬉しく思っております。さすが東京は違うなあと思えています。
こう書いて(打って?)いて、思うことは、自身の鍼灸如何に学ぶべきか、は南郷先生が武道の世界でなされたことをミニマム形態であるにせよ、鍼灸、東洋医学の世界でなすこと、そのことで、現在ある鍼灸の世界だけでは無しに、もっと広く世界を見渡せば、道は拓ける!ということを、鍼灸の世界の志ある方々に知っていただきたい、ということだったのだなあ、と。
貴兄が関係各所の意向云々と言われること、自身も昔々には、ある組織に所属していたことがあるのでよく分かります。
自身が本ブログで好き勝手に諸々を論じて来れたのも、基本的に自身は鍼灸、東洋医学の世界では、鍼灸学校の学生である以外、ほとんど何処にも属さない(属せなかった?)からである、とも思います。
現在、まともに時間が取れず、中途半端なコメントへの回答で申し訳ないですが、本ブログが閉鎖への方向へと向かっているのは、決して貴兄のコメントゆえではありませんので、ご心配は無用です。
貴兄が、見事なる鍼灸、東洋医学の確立をされることを祈ります。コメントありがとうございました。
私のように人生経験はそれなりに長く思考もある程度は積み重ねてきたとはいえ鍼灸という専門分野は歩みはじめた駆け出しの初心者からするとブログ主が考えるがごとき「3年間の専門学校在学の経験をもって鍼灸如何に学ぶべきか?を総括する」などということが果たして可能なのだろうか?との思いで一杯です。
3年間という期間は武道でいえば「千日をもって鍛とし」という初段位を取るくらいの期間ですから、ブログ主が敬愛する南郷氏が18~19歳で空手を始めて46歳で『武道への道』という入門書を書けたという28年もの期間を考えたなら実際に学んで資格を取ったという経験知の取得に留まり、真に「如何に学ぶべきか?」を理解するには教員養成課程に進み学生の指導を手掛けなければ解らないのではないでしょうか?
在学当時の記事が今より論理のレベルが高いというのは具体的にどの記事がどうレベルが高いのかを示していただかねば判断できかねますが、初心の3年間は良く分からぬ状況でも先生の指導に必死でついていくばかりでしょうから、そのレベルの高さというのは教えていた先生のレベルの高さであった可能性は十分考えられると思われます。
残念ながら東京でも南郷学派が開いている勉強会や学習会の情報は耳に入ってきませんから、同じく弁証法といっても私のは系統が異なっています。おそらくは古代ギリシャまで遡れば同じご先祖さまともなりましょうが、たぶん富名腰義珍の空手が今の松涛会と極真まで変わった、いやそのまた先の新体道とK1まで変わったごとき違いがあるやも知れません。
ブログ主が説く「南郷氏が武道の世界で成したこと」というのは門外漢である私にはにわかに解りかねますが、なんとなく南郷理論へのコダワリがブログ主に3年間の学習の総括を妨げさせているようにも私には感じられました。
というのは、ブログ主の論法では鍼灸学校での学びの総括は「東洋医学とは何か?」という問いに収斂するもののようですが、学校で使っている教科書にも東洋医学の特徴を西洋医学と比較して説かれてますでしょう?
ですが、ブログ主にはそれでは満足いかないわけですよね。それは南郷氏の著書のような「空手は武道であり、武道とは何か?という概念化が空手の個々の修練、例えば騎馬立ちというのは何故あのような立ち方をするのか、約束組手というのはどういうものか?」といったことを総合的に説明していくような体系的な論述を望んでいるからではありませんか?
ですが、現実の世の中を見渡せば「空手はスポーツではない武道」ではなく「空手はスポーツの面と武闘の面とを複雑にもった文化」でしょうし、学校で学ぶ鍼灸は「鍼灸は西洋医学ではない東洋医学」ではなく「鍼灸は東洋医学も西洋医学も共に拠り所とする」という中西医結合の考え方ではないでしょうか?
それで私の「弁証法」のもう一つの系譜ともなるのはブログ主とも共有できる?中医学の弁証論治だと考えているんです。この弁証論治というのは中国共産党が中華人民共和国を建国した後で任応秋さんが作った言葉のようですから、この弁証論治の弁証というのはマルクス・毛沢東主義の唯物論的弁証法の弁証でしょうし、カントの弁証論の弁証でもあると思います。
要するに「対立の統一」の弁証法ですし、陰陽、臓腑、虚実、熱寒といった二項対立の考えです。
カントも弁証論というのは推論、つまりは直接見えないところを推理するのに使ったようですし、中医学でも直接は見えない患者さんの「証」を定めるのに使うみたいですしね。
ブログ主さんの郷愁を台無しにしてしまう残酷な言葉かも知れませんけれど、南郷学派を忘却すれば3年間の学びの総括は容易いものとなるに違いありません。
コメントを読んで気付きました。
悪しき相互浸透を回避するには、
「対象を自己の学習目的に即して捉える」
事なのでは?
例えば、算数の学びでは、「1+1=2」になる事が絶対です。
しかし、弁証法の学びでは、「1+1にならない事もある」が絶対です。
なので、1+1≠2の現実がある場合、算数では1+1=2になるように捉え直します。
例えば、「1リットルの水と1リットルの砂合わせて何リットル?」
この問題の場合、現実では2リットルにはなり得ません。
だから、問題を「一キロの水と一キロの砂を合わせ何キロ?」と変えます。
しかし、現実では、一リットルの水も一リットルの砂もあり得ます。
それを一緒にする事も可能です。でも、それでは「二リットル」にはなり得ません。
現実的に、空手はスポーツとも武道とも捉えられます、
でも、どのように空手を学びたいか?どのような空手を教えたい・学ばせたいか?
その目的によって、空手を捉える事が必要なのでしょう。
もっとも…空手の出発点は武道だそうですが…
本ブログは「鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~」です。
ここに、ブログ主の目的も意識も書かれています。
この場合、読者にとって、
その目的に即しての相互浸透なら善き相互浸透ですが
目的に反する相互浸透なら悪しき相互浸透と言い得るのでは?
ありがとうございます。
南郷氏の武道講義でも人の知らないところで積み重ねた地道な努力なくしてウハウハと世間に出ていくと何時しか相手にされない中身のない自分に愕然とするというようなことが書かれておりましたね。
そうならぬよう自戒して専門の道を歩んでいく所存です。