MJHA(日本を再び健康な国に)〜東洋医学の実践的理論研究~

MJHA(日本を再び健康な国に)という志で、食・運動(姿勢)・休息(睡眠)に関わる問題等を論理的に説きます。

バドミントンの学び〜技のモデルチェンジの過程的構造〜

2024-11-15 08:25:19 | バドミントンの学び
 今朝は、本来ならば「唐揚げ」と「パンペイザン作り」に関わる自身の認識を、映像として追うつもりであった(その準備が整ったとの思いがあった)のだけれども、急遽変更して「バドミントンの学び」について書きたいと思う。

 理由は、昨夜のバドミントン教室で今年2月に始めて以来「やろうとしてできない」という繰り返しで、夢にまで見た「スマッシュ・ハイクリア」というオーバーハンドストロークが初めてまともに打てたからである。

 どういうことかといえば、昨夜、覚え書的に書いたように、「できないことができるようになる、出来るようにしていく、その過程にこそ弁証法の学びがある。」との思いがあるからであり、それこそが「論理的事実」を持つということである、と思えるからである。それゆえに、その事実をしっかりと見つめて、残しておきたい、との思いからである。

 これは別言すれば、自身は単なる理論家ではなしに、実践的理論家あるいは理論的実践家でありたい、と常々思っているからの、である。

 ついでに述べておけば、このブログ記事も(お気づきの方も多いかもしれないが)、常に自身の実践の事実を踏まえての、あるいは、知識としての論理を自身の事実として持っての、記述である。(ありたいと努めている。)

 それゆえ、自身では、他人の実践や摑みとってきた論理を、知識として持つことには、そこからのクイズ的思考には(それゆえに受験秀才のアタマの働かせ方には)何の意味もない、と思っている。

それだけに、そのような記述には何の興味も持てないのだが......少し前置きが長くなりすぎたようである。

 さて、肝心の昨夜のバドミントン教室での出来事。事実的端的には、今年の2月にムエタイの準備運動として(ここは詳しくはまた書くつもりである)始めたバドミントンであったのだが、スマッシュ・ハイクリアというオーバーハンドストロークが、練習しても練習してもまともに打てない、という日々が10ヶ月をも続いていた。(逆にバックハンドストロークは初めて1ヶ月もしないうちに打てるようになったのに、対して)ものがようやくに打てるようになった、ということである。

 これまで「バサッ」という鈍い音とともにシャトルが全く飛ばなかったのが、「パシッ!」という打球音とともに、しっかりと相手コート奥まで、または鋭く相手コートに飛ぶようになった。(これは今だ2回に1回ぐらいのではあるが)

 「やっと!」と「やった!」との二つの思いで、昨夜は眠れぬほどであった。

 そんな自身の喜びはさておき、何故に、なかなかにオーバーハンドストロークは打てなかったのか ?(逆に何故にバックハンドストロークがすぐに打てたのか ?) ということを考えてみたい。

 これは、結論から言えば、それまでに習得していた他の技( = 体の動き、神経の働き、イメージ)が新たな技の習得を邪魔していたのだ、と思える。

 事実的には、自身はバドミントを学ぶ以前に、学生時代にはテニスを数年間熱心に練習していた過去(あるいは刀術・居合を学んでいた過去がある。(これは現在に至るものである。)

 それらの技は、バドミントンの技、特にオーバーハンドストロークと共通点があり、ある意味そっくりである。と言っていいものであった。

 例えばテニスでいえば、テニスのスマッシュ等のオーバーハンドストロークとバドミントンのスマッシュ等のオーバーハンドストロークは形の上では大変よく似ている、ほとんど同じものであるといってもいいと思う。それだけに当初は、先に学んだものの感覚でやってしまいがちになるものである。

 この場合で言えば、バドミントンのスマッシュをテニス的に、である。通常はそうやって打ってみてもうまくいかないところからテニスとバドミントンは違うのであるからと反省して(?)バドミントンの打ち方で!と練習して打てるようになっていくものである。(あるいはテニス的打ち方で下手なままやるという場合もあるが......)

 しかしながら、数年間それなりに熱心に練習して、それなりの上達( = 技が身につく)がテニスにおいてあった場合、技(筋肉、神経イメージ等)がどうしてもバドミントンの打ち方技の習得を邪魔してしまうということがある。

 また、自身の場合は、それに加えて何十年ものかつ、現在においてもの刀術の学びがあった。(刀ではバドミントンのスマッシュの打ち方のごとき振り方・斬り方は絶対ありえない。)

 では、何故にバックハンドストロークは可能であったのか ? といえば、テニスや刀術とは全く違う動きであり(テニスはどちらかといえば近いのであるが、自身はバックハンドストロークは主にスライス系の球を打っていたので)、またバック側は、フォア側ほどに器用ではない、神経と筋肉が発達していない、ということもある。(これは鈍才の秀才という論理)

 以上を要するに、技を学ぶ場合には、似た技は前の技が後の技の習得を妨げるのだ!ということ、これは技が身に着くほどにモデルチェンジが難しい、ということであり、場合によっては不可能ということでもある。

 では、そこを打開する方法はないのか ? といえば、まずイメージを変え、体が変わるまで努力し続けるしかないということであろう、と思う。

 これは「股関節重心」へのモデルチェンジの問題、何故に「股関節重心」ができないのか?の問題でもある。ので改めて説きたい。

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