鍼の補瀉と灸の補瀉について学ぶと、鍼と灸は別物では?との思いする。
はりきゅう理論の時間に鍼灸の補瀉について学んだ。鍼の補瀉は、以前にブログで取り上げたが、良く言えば理論的、抽象的、悪く言えば空想的である。それに対して、灸の補瀉は、良く言えば実践的、具体的、悪く言えば素朴なものである。
具体的には鍼の補瀉は、呼吸の補瀉、迎隨の補瀉、開ごうの補瀉、刺入速度の補瀉、揺動の補瀉、捻転の補瀉。と学ぶ。
それに対して灸の補瀉は、艾柱の硬さ、艾柱の高さと底面、艾柱の大きさ、艾柱の置き方、艾柱の燃焼、熱感、灰の処理、壮数のそれぞれに補法と瀉法がある。と学ぶ。
明らかに補瀉法の命名の仕方が違うと思える。
歴史的には、先ず鍼による排膿、瀉血と灸があり、毫鍼による鍼はかなり時代が下ってからである。また、常に鍼と灸が一体のものとして発展して来たのでも無く、ある時代は鍼が、またある時代は灸が治療の主であった。
そんな鍼と灸の成立、発展の違いが補瀉の命名の違いともなっているのではと思える。
そう考えると、鍼灸は一体のものでは無くて、鍼と灸とであるのかもと思える。
実際の治療でも、鍼に特化しての施術を行う鍼灸師が多いのも、効率のみの問題では無いのかもしれない。
はりきゅう理論の時間に鍼灸の補瀉について学んだ。鍼の補瀉は、以前にブログで取り上げたが、良く言えば理論的、抽象的、悪く言えば空想的である。それに対して、灸の補瀉は、良く言えば実践的、具体的、悪く言えば素朴なものである。
具体的には鍼の補瀉は、呼吸の補瀉、迎隨の補瀉、開ごうの補瀉、刺入速度の補瀉、揺動の補瀉、捻転の補瀉。と学ぶ。
それに対して灸の補瀉は、艾柱の硬さ、艾柱の高さと底面、艾柱の大きさ、艾柱の置き方、艾柱の燃焼、熱感、灰の処理、壮数のそれぞれに補法と瀉法がある。と学ぶ。
明らかに補瀉法の命名の仕方が違うと思える。
歴史的には、先ず鍼による排膿、瀉血と灸があり、毫鍼による鍼はかなり時代が下ってからである。また、常に鍼と灸が一体のものとして発展して来たのでも無く、ある時代は鍼が、またある時代は灸が治療の主であった。
そんな鍼と灸の成立、発展の違いが補瀉の命名の違いともなっているのではと思える。
そう考えると、鍼灸は一体のものでは無くて、鍼と灸とであるのかもと思える。
実際の治療でも、鍼に特化しての施術を行う鍼灸師が多いのも、効率のみの問題では無いのかもしれない。