書くということによる「思い」の自己運動を観念論的に、かつアバウトにマンガ的に説いてみたい。
我々がある対象に関わり続けると、その対象に関わっての「思い」を描けることにもなっていく。ここは、認識というものは問いかけ的反映であるから、いかなる反映になるかは問いかけいかんという面もあるが、そこはカットして「思い」をあるものとして説き始めたい。話は、「思い」が自身の何者かを知ろうとするところから始まる。
「思い」は、「これはこうなのだ。」「あれはああなのだ。」と素朴な一般論レベルでは自身が自身にとって明白ではあっても、逆に自身にとって明白である分だけ余計に、「何故そういえるのか?」と自身に問うてみると、自身のことであるにも関わらず霧がかかったようで、自分自身のことであるにも関わらずその中身は明確には分からない。それゆえ他者にも自身はこうなのだと少しも説明できない。ということにある時気づくことになる。
そこで「思い」は、自身が何者であるのかを知ろうとして、自身の誕生の一方の原点である事実を知っていこうと、「事実」に姿を変えて、「思い」の誕生の原点であると思える、あの事実からこの事実、この事実からまた別の事実へと次々と、あるいは「思い」に反する事実にも次々と姿を変えていくことで、事実を知っていく。
そうして「事実」を知っていくことで、また「事実」⇄「思い」という上り下りを繰り返す中で、次第次第に「事実」は整理され分類されていくことになる。そこから「事実」は「事実の持つ意味」へ......「論理」へと化体していくことになる。
そうして「思い」⇄「事実」(⇄「事実の持つ意味」)⇄「論理」と化体していって、「思い」は自身の中身をようやくに識ることで、当初の素朴な(一般論として)「思い」は、自身の中身を識った(本質論としての)「思い」へと転成する、「思い」は自己へ帰る円環を描くことにとなる。
以上のごとくに、「思い」の自己運動をアバウトに、マンガ的にでも具体性を持って描いていくと、当初カットした問いかけの問題を抜きにするとそれが「思い」の一方の原点であるだけに、「思い」の自己運動をマンガ的に描くのに、片手落ちであるとも思える。例えば、対象を「二つに分けて視る。二重性で視る。」という問題が抜け落ちてしまう、とも思える。そこは改めて説きたい、と思う。
我々がある対象に関わり続けると、その対象に関わっての「思い」を描けることにもなっていく。ここは、認識というものは問いかけ的反映であるから、いかなる反映になるかは問いかけいかんという面もあるが、そこはカットして「思い」をあるものとして説き始めたい。話は、「思い」が自身の何者かを知ろうとするところから始まる。
「思い」は、「これはこうなのだ。」「あれはああなのだ。」と素朴な一般論レベルでは自身が自身にとって明白ではあっても、逆に自身にとって明白である分だけ余計に、「何故そういえるのか?」と自身に問うてみると、自身のことであるにも関わらず霧がかかったようで、自分自身のことであるにも関わらずその中身は明確には分からない。それゆえ他者にも自身はこうなのだと少しも説明できない。ということにある時気づくことになる。
そこで「思い」は、自身が何者であるのかを知ろうとして、自身の誕生の一方の原点である事実を知っていこうと、「事実」に姿を変えて、「思い」の誕生の原点であると思える、あの事実からこの事実、この事実からまた別の事実へと次々と、あるいは「思い」に反する事実にも次々と姿を変えていくことで、事実を知っていく。
そうして「事実」を知っていくことで、また「事実」⇄「思い」という上り下りを繰り返す中で、次第次第に「事実」は整理され分類されていくことになる。そこから「事実」は「事実の持つ意味」へ......「論理」へと化体していくことになる。
そうして「思い」⇄「事実」(⇄「事実の持つ意味」)⇄「論理」と化体していって、「思い」は自身の中身をようやくに識ることで、当初の素朴な(一般論として)「思い」は、自身の中身を識った(本質論としての)「思い」へと転成する、「思い」は自己へ帰る円環を描くことにとなる。
以上のごとくに、「思い」の自己運動をアバウトに、マンガ的にでも具体性を持って描いていくと、当初カットした問いかけの問題を抜きにするとそれが「思い」の一方の原点であるだけに、「思い」の自己運動をマンガ的に描くのに、片手落ちであるとも思える。例えば、対象を「二つに分けて視る。二重性で視る。」という問題が抜け落ちてしまう、とも思える。そこは改めて説きたい、と思う。