『哲学・論理学研究余滴(5)』(『学城 第14号』現代社 所収)を読み返している。医古文如何に学ぶべきかを示唆していただいている、と思える。
東洋医学を本当に分かって行くには、黄帝内経に代表される古典=原点から現代までの流れを、一般教養としておく必要がある、と思える。通常は、ここをなすために『素問』『霊枢』『鍼灸甲乙経』『太素』等々の古典=医古文を繙くということになる。(その前段階として東洋医学の概説書の学びも必要とされると思う。)
その医古文の学びにおいて、通常は邦訳を、医古文に対しての熱意のある方は原典にあたる、あるいは両者の併用を行うということになる。
結果として、「昔昔はこの様に世界を、鍼灸を、病を、患者を、術者を捉えていたのか。そしてそれらの捉えかたが、変遷していって、あるいは発展していっての現在の東洋医学、鍼灸というものがあるのか。」とそれなりに思える様になって、そこから自身の鍼灸、東洋医学を振り返っての……となって行くのだと思う。
しかしながら、そこには大いなる誤解、曲解が存在する。ということが『哲学・論理学研究余滴(5)』を読むと気付かされる、と思う。
どういうことか?といえば、医古文というものは、二重の意味で、それを書いた作者の認識そのものでは無いということである。
一つは、医古文と言われる文書は、場合によっては二千年以上も前の文書の伝承である、ということ。それだけに伝わる間に伝える者の誤りや恣意によって変化させられている可能性がある、というか変化させられている、と考えたほうが良い、ということ。
もう一つは、伝わっている文書が如何に正確に当時そのままであったとしても、言語というものは認識そのものでは無いだけに、文字だけからその内容を読み取ろうとしても本当のことは分かりようが無い、まして古代中国にあっては、人類も幼い時代であったのだから、認識の言語化ということもそれなりに……であったと考えるべきであるから……。
では、どうすれば良いのか!?ということが、『哲学・論理学研究余滴(5)』では説かれている。示唆していただいている。と思える。
医古文、古典に真剣に取り組むみなさんに、『哲学・論理学研究余滴』を読んでいただければ……と思う。
東洋医学を本当に分かって行くには、黄帝内経に代表される古典=原点から現代までの流れを、一般教養としておく必要がある、と思える。通常は、ここをなすために『素問』『霊枢』『鍼灸甲乙経』『太素』等々の古典=医古文を繙くということになる。(その前段階として東洋医学の概説書の学びも必要とされると思う。)
その医古文の学びにおいて、通常は邦訳を、医古文に対しての熱意のある方は原典にあたる、あるいは両者の併用を行うということになる。
結果として、「昔昔はこの様に世界を、鍼灸を、病を、患者を、術者を捉えていたのか。そしてそれらの捉えかたが、変遷していって、あるいは発展していっての現在の東洋医学、鍼灸というものがあるのか。」とそれなりに思える様になって、そこから自身の鍼灸、東洋医学を振り返っての……となって行くのだと思う。
しかしながら、そこには大いなる誤解、曲解が存在する。ということが『哲学・論理学研究余滴(5)』を読むと気付かされる、と思う。
どういうことか?といえば、医古文というものは、二重の意味で、それを書いた作者の認識そのものでは無いということである。
一つは、医古文と言われる文書は、場合によっては二千年以上も前の文書の伝承である、ということ。それだけに伝わる間に伝える者の誤りや恣意によって変化させられている可能性がある、というか変化させられている、と考えたほうが良い、ということ。
もう一つは、伝わっている文書が如何に正確に当時そのままであったとしても、言語というものは認識そのものでは無いだけに、文字だけからその内容を読み取ろうとしても本当のことは分かりようが無い、まして古代中国にあっては、人類も幼い時代であったのだから、認識の言語化ということもそれなりに……であったと考えるべきであるから……。
では、どうすれば良いのか!?ということが、『哲学・論理学研究余滴(5)』では説かれている。示唆していただいている。と思える。
医古文、古典に真剣に取り組むみなさんに、『哲学・論理学研究余滴』を読んでいただければ……と思う。