五臓の虚実と経脈の虚実についての自身の理解。あるいは五臓(六腑)と経脈の区別と連関。
肺の虚証と肺の経脈の虚しているということは、同じことなのだろうか?違うことなのだろうか?というのが、当初の疑問であった。それに対しての当初の自身の思いは、「同じことなのでは?」であった。
なぜならば、五臓としての肺というものは実体では無くて機能であるから、肺自体を取り出して見て、肺が虚しているとか実しているとかを云々することは出来ない。それゆえ、それを、虚実を判断するには四診によってとなるが、中でも経脈の虚実によってのその属する?五臓(六腑)の虚実を判断する、ということが重視される。例えば、肺の経脈が虚しているならば五臓としての肺が虚しているとなる。
そして、その経脈というものも実体では無くて機能である、といわれるのであるから、そこを肺の虚実と肺経脈の虚実に分けることに意味があるのだろうか?……同じことなのでは?との思いとなったが……何か違う様にも思える。
同級生の中医師氏にこのことを問うと、端的には、「そもそも経脈は気血の通路であるから、そこに虚実は無い。肺の虚実を肺の経脈を流れる気血の虚実として診ることで肺の虚実が分かるということでしか無い……」との答えであった。(せっかく説いてもらったのだが、理解し切れない部分が多々あって……)
東洋医学臨床論担当教員に問うと、「それは同じものと考えて良い」との答えであった。
職場の経絡治療家である鍼灸師氏に問うと、「ニヤリーであるがノットイコール」との答えであった。
三氏の見解はそれぞれさまざまであるが、共通するのは、五臓も経脈もともに実体として捉えているのでは?ということ……実体として考えるならば、肺の虚証と肺の経脈の虚しているということは相対的独立の問題として考えねばならない、とは思える。
例えば、職場の低周波治療器が先日、故障したのであるが、それを例にすると(……この項書きかけ。金曜日の実技試験後に続きを書く予定、悪しからず……)
肺の虚証と肺の経脈の虚しているということは、同じことなのだろうか?違うことなのだろうか?というのが、当初の疑問であった。それに対しての当初の自身の思いは、「同じことなのでは?」であった。
なぜならば、五臓としての肺というものは実体では無くて機能であるから、肺自体を取り出して見て、肺が虚しているとか実しているとかを云々することは出来ない。それゆえ、それを、虚実を判断するには四診によってとなるが、中でも経脈の虚実によってのその属する?五臓(六腑)の虚実を判断する、ということが重視される。例えば、肺の経脈が虚しているならば五臓としての肺が虚しているとなる。
そして、その経脈というものも実体では無くて機能である、といわれるのであるから、そこを肺の虚実と肺経脈の虚実に分けることに意味があるのだろうか?……同じことなのでは?との思いとなったが……何か違う様にも思える。
同級生の中医師氏にこのことを問うと、端的には、「そもそも経脈は気血の通路であるから、そこに虚実は無い。肺の虚実を肺の経脈を流れる気血の虚実として診ることで肺の虚実が分かるということでしか無い……」との答えであった。(せっかく説いてもらったのだが、理解し切れない部分が多々あって……)
東洋医学臨床論担当教員に問うと、「それは同じものと考えて良い」との答えであった。
職場の経絡治療家である鍼灸師氏に問うと、「ニヤリーであるがノットイコール」との答えであった。
三氏の見解はそれぞれさまざまであるが、共通するのは、五臓も経脈もともに実体として捉えているのでは?ということ……実体として考えるならば、肺の虚証と肺の経脈の虚しているということは相対的独立の問題として考えねばならない、とは思える。
例えば、職場の低周波治療器が先日、故障したのであるが、それを例にすると(……この項書きかけ。金曜日の実技試験後に続きを書く予定、悪しからず……)