卒業研究の構想がようやくに素描レベルでではあるがイメージ出来た。端的には、卒業研究批判という形に、と思う。
当初は、「耳鍼」を題材として統計学的に卒業研究をおこなうことで「耳鍼」の検証、と直接に統計学の、『統計学という名の魔法の杖』(本田克也 浅野昌充 神庭純子著 現代社白鳳選書)の実践的学びとしていこう、との構想で始まった卒業研究であった(自身の認識としてはである)が、現実との相克から、日常語でいえば「現実的な諸事情から」単なる事例報告へとなっていくしか無く、それゆえ統計学の学びは自身の問題として棚上げしての卒業研究となっていった。
ところが、アンケート調査、実験=データ収集もすべておわって、それらを卒業研究発表という形にすべく整理して考察していく段階になって、アンケート調査結果、集めたデータからは、「耳鍼については何も言えない」という困ったことに、自身としては予想通りのことになっていった。そのような事情もあって、また担当教員の結果を統計学的に!という指導もあっての、自身の、再度の卒業研究の見直しであった。以上が、前回まで述べてきたことの要約である。
以上を振り返って、あれこれ思いをめぐらせていって思いついたのが、冒頭に述べた、「卒業研究批判という形での卒業研究」である。具体的には、現在出来上がっている「卒業研究」の、統計学的に研究・検証するとすれば不足する部分を対比するような形で指摘していくことで、統計学的卒業研究として完成させていく、ということをイメージしている。
これは、あらまほしき姿から現状の姿を視ることで足らざるところを補うことで完成していくことであり、治療において、正常から異常を視ての歪みを整えるということと同じアタマの働きである、と考えている。
当初は、「耳鍼」を題材として統計学的に卒業研究をおこなうことで「耳鍼」の検証、と直接に統計学の、『統計学という名の魔法の杖』(本田克也 浅野昌充 神庭純子著 現代社白鳳選書)の実践的学びとしていこう、との構想で始まった卒業研究であった(自身の認識としてはである)が、現実との相克から、日常語でいえば「現実的な諸事情から」単なる事例報告へとなっていくしか無く、それゆえ統計学の学びは自身の問題として棚上げしての卒業研究となっていった。
ところが、アンケート調査、実験=データ収集もすべておわって、それらを卒業研究発表という形にすべく整理して考察していく段階になって、アンケート調査結果、集めたデータからは、「耳鍼については何も言えない」という困ったことに、自身としては予想通りのことになっていった。そのような事情もあって、また担当教員の結果を統計学的に!という指導もあっての、自身の、再度の卒業研究の見直しであった。以上が、前回まで述べてきたことの要約である。
以上を振り返って、あれこれ思いをめぐらせていって思いついたのが、冒頭に述べた、「卒業研究批判という形での卒業研究」である。具体的には、現在出来上がっている「卒業研究」の、統計学的に研究・検証するとすれば不足する部分を対比するような形で指摘していくことで、統計学的卒業研究として完成させていく、ということをイメージしている。
これは、あらまほしき姿から現状の姿を視ることで足らざるところを補うことで完成していくことであり、治療において、正常から異常を視ての歪みを整えるということと同じアタマの働きである、と考えている。