『哲学・論理学原論』で「独りっきりの二人問答」として説いていただいていること、闘論の場を持てない場合の、一人での弁証術の学びかたである、と思える。
『哲学・論理学原論』を読むと弁証術の学びのための闘論の場を持つことの必要性、痛感されるのであるが、現在の自身にはそのような場を持つことは望むべくもないので、南郷先生がその大事性、必須性を説かれる度に途方にくれる、しかない。
それでも、もし南郷先生が自身の立場であれば自身のごとくに途方にくれて......となる筈も無い。例えばヘーゲルが学的研鑽の順序としては致命的とも言える失敗を犯したにもかかわらず......自身の学の完成へ向けて、一心に挑む人生を把持し続けていた、ということを知るにつけても、自身の出来る限りの努力を!との思いで取り組んでいる、取り組み続けているのであるが、時には......の現実がある。
そんな思いでの、『哲学・論理学原論』の「独りっきりの二人問答」であったので......心の底から、ありがたく。
『哲学・論理学原論』を読むと弁証術の学びのための闘論の場を持つことの必要性、痛感されるのであるが、現在の自身にはそのような場を持つことは望むべくもないので、南郷先生がその大事性、必須性を説かれる度に途方にくれる、しかない。
それでも、もし南郷先生が自身の立場であれば自身のごとくに途方にくれて......となる筈も無い。例えばヘーゲルが学的研鑽の順序としては致命的とも言える失敗を犯したにもかかわらず......自身の学の完成へ向けて、一心に挑む人生を把持し続けていた、ということを知るにつけても、自身の出来る限りの努力を!との思いで取り組んでいる、取り組み続けているのであるが、時には......の現実がある。
そんな思いでの、『哲学・論理学原論』の「独りっきりの二人問答」であったので......心の底から、ありがたく。