駅への道での出来事の意味を捉え返すと、自身の学びかたの正しさに確信が持てた。
今朝、自転車で自宅から駅への途中の坂を上っていると、高校生くらいの男子が自身の横を猛烈な勢いで追い抜いていった。自身の思いとしては、「すごいな!若いから体力が溢れてる!」であったが、駅の駐輪場についてみると、先ほど猛スピードで追い抜いていった男子が、何かカバンを開けて探している様子。
それを見て、「財布でも忘れて探しているのか?せっかく猛スピードで走って駅についても、これじゃあ電車に間に合わないなあ。出かける前に必要なものの確認をしなかったのか?(自身では、財布、定期の確認は朝出かける前の習慣となっているのに……)」との思いとともに、「まるで、ウサギとカメの寓話だなあ……あっ!鍼灸国試の勉強もそういうことだよなあ……」との思いとなった。
そこからの自身のアタマの中の像は、「猛スピードで追い抜いていった若者と自身を比べてみるならば、体力では到底叶わない、それは、鍼灸国試(に限らないが)の学びでも同じことで、記憶力だとか、睡眠不足に耐えて勉強を続けるだとかいう、体力勝負をすれば叶わないし、仮に同じことをしても同じ様に国試に合格するための実力をつけていくわけにはいかない。
しかし、である。猛スピードで追い抜いていった若者が、駐輪場で探しものをしてもたついて電車にに乗れず、反対に、駅に着くのが遅かった自身はこうして電車の中でメールのチェックをし、ブログの更新をしようとしている。それは、出かける前に、対象の構造に見合った行動(財布や定期等の忘れものが無いかのチェック等)を行なっているからに他ならない。
これは、別の観点からいえば、やたらめったら体力まかせに(本能的に?)対象に対象に取り組んだのと、アタマをしっかり働かせて、対象の構造に見合った働きかけをしたとの違いによる、結果の違い、電車に乗り遅れて遅刻するのと電車内で余裕を持ってブログの更新をするのと、との天と地ほどの違いである。
また、「いのちの歴史」に尋ねるならば、比喩的にいえば、体力勝負の限界を超えるためにこその、脳から頭脳への進化、単なる反映像から認識の誕生なのであるから、自身の鍼灸国試の(に限らず凡ゆる)学びも、体力勝負にせずに、しっかりとアタマを働かせての学びとするならば、より具体的には、「覚えることでは、無く分かっていくこと」で学んでいくならば……」であった。鍼灸国試のアタマを働かせての学びに、全力で取り組んでいきたい。
今朝、自転車で自宅から駅への途中の坂を上っていると、高校生くらいの男子が自身の横を猛烈な勢いで追い抜いていった。自身の思いとしては、「すごいな!若いから体力が溢れてる!」であったが、駅の駐輪場についてみると、先ほど猛スピードで追い抜いていった男子が、何かカバンを開けて探している様子。
それを見て、「財布でも忘れて探しているのか?せっかく猛スピードで走って駅についても、これじゃあ電車に間に合わないなあ。出かける前に必要なものの確認をしなかったのか?(自身では、財布、定期の確認は朝出かける前の習慣となっているのに……)」との思いとともに、「まるで、ウサギとカメの寓話だなあ……あっ!鍼灸国試の勉強もそういうことだよなあ……」との思いとなった。
そこからの自身のアタマの中の像は、「猛スピードで追い抜いていった若者と自身を比べてみるならば、体力では到底叶わない、それは、鍼灸国試(に限らないが)の学びでも同じことで、記憶力だとか、睡眠不足に耐えて勉強を続けるだとかいう、体力勝負をすれば叶わないし、仮に同じことをしても同じ様に国試に合格するための実力をつけていくわけにはいかない。
しかし、である。猛スピードで追い抜いていった若者が、駐輪場で探しものをしてもたついて電車にに乗れず、反対に、駅に着くのが遅かった自身はこうして電車の中でメールのチェックをし、ブログの更新をしようとしている。それは、出かける前に、対象の構造に見合った行動(財布や定期等の忘れものが無いかのチェック等)を行なっているからに他ならない。
これは、別の観点からいえば、やたらめったら体力まかせに(本能的に?)対象に対象に取り組んだのと、アタマをしっかり働かせて、対象の構造に見合った働きかけをしたとの違いによる、結果の違い、電車に乗り遅れて遅刻するのと電車内で余裕を持ってブログの更新をするのと、との天と地ほどの違いである。
また、「いのちの歴史」に尋ねるならば、比喩的にいえば、体力勝負の限界を超えるためにこその、脳から頭脳への進化、単なる反映像から認識の誕生なのであるから、自身の鍼灸国試の(に限らず凡ゆる)学びも、体力勝負にせずに、しっかりとアタマを働かせての学びとするならば、より具体的には、「覚えることでは、無く分かっていくこと」で学んでいくならば……」であった。鍼灸国試のアタマを働かせての学びに、全力で取り組んでいきたい。
それは、自転車で角を曲がって、突然に前から自転車が来た時です。
乗っているのが若者なら、彼は瞬時に反射的にハンドルの切って避けます。
老人なら、その者はブレーキを握って急停止します。
なので、若者と老人は正面衝突し難いようです。
でも、若者と若者だと、一つ間違えて互いに同じ向きにハンドルを切って衝突もあり得ます。
それでも運動神経・反射神経が抜群の若者なら、再度反射的回避可能で事故はし難いでようですが…
中途半端な運動・反射神経の若者が一番に事故り易いようです。
今は老人の私は、予め自転車・歩行者を想定して曲がれる、ように努めています。
自転車といえば、先日の夜、裏道を歩いていたら無灯火の自転車が突っ込んできて、反射的に跳びのいて避けたものの、避けるのが精一杯で同時に反撃の手が出ずで(笑)
睡眠不足の学校帰りで呆けていたから、と自分に言い訳しつつも、歳はとりたく無いものと……。
>…避けるのが精一杯で同時に反撃の手が出ずで(笑)
いや~「避ける」即「反撃」ですか!
私には、全くなかった認識です。
今後は、私も心がけなければ!と痛感しました。
「何事も武道空手から考える」ですね!
そういう意味で、先ずは日常生活の事実で、そして自身の専門の事実でということになると思うのですが、南郷先生(や南郷学派の先生がた)の説かれることを捉え返すのには、自身にある程度の武道・空手の経験があるのならば、その事実でも考えて見るということが、説かれていることの理解の最善の方法であると思えます。
何故ならば、その大元が武道哲学であるから……と思うのですが。