MJHA(日本を再び健康な国に)〜東洋医学の実践的理論研究~

MJHA(日本を再び健康な国に)という志で、食・運動(姿勢)・休息(睡眠)に関わる問題等を論理的に説きます。

雪駄で滑るの効用〜対象の反映は問いかけの意識性に応じて深まりうる〜

2017-05-26 20:03:48 | 日記
解剖と生理の総復習(というよりも、鍼灸の解剖と生理の教科書は入学時にざっと目を通しただけなので知らなかった内容が随分とあるので、新たな解剖と生理の学びと言ったほうがいいかもしれない)をすることで、新たな反映があるからか書いておきたい事柄が次から次へと浮かんでくるので、休養宣言?をしたものの、解剖と生理の学びの合間になるべく更新して行くことに……。

さて、本日のお題は、「雪駄で滑るの効用」。端的には、恐さを持っての必死に対象に問いかけることの意義について。

ここ数日、解剖と生理の学びに時間が割かれて睡眠も不足になりがちなので、運動の時間を削ることで最低限の睡眠時間を確保している。それゆえ、その運動の不足分を少しでも補いたい、との思いから、日常的に雪駄を履き、例えば、滑る床を選んで歩いたり、階段の降りで足音させないようにしたり、と取り組んでいる。

その中で、雪駄での滑る床での歩き。相変わらず、少し油断すると転倒一歩手前の滑りかたをして、「パタンッ!」と大きな音を立てて、恥ずかしい思いをしたりするのであるが、次第次第に自身の足の運びの問題だけでなく、床の構造も視えてきたとの思いがしている。

具体的には、足裏の隅々にまで意識と力をしっかりと込めるように努力して歩いていても、転倒しかけたり、転倒したりする場合、当初は、踵からの着地ゆえに(雪駄の踵部分には金属が埋め込んであるので)と思っていたのだが、確かに踵からの着地は滑るのではあるが、それだけでは無しに、床が緩やかな降り坂となっている場所で滑るということに、気づくようになった。

それゆえ、降り坂の部分では、床の垂直方向に足裏全体に均等に力を込めての歩く、を心がけて、であったのだが、それでも時には滑って……であった。

「?」との思いのままに、滑る床での雪駄での歩きをいつ転倒するかと戦々恐々で続けていたのだが、昨日、何時もの滑る大理石の床を歩いていて、これまで平らだと思っていた(せいぜい緩い傾斜が所々にあるだけと思っていた)大理石の床、実は至る所に微妙な凹凸があっての、その凹凸に合わせての足の運びが出来ていないからの転倒である、のでは無いか?との気付きがあった。

これは、滑って転倒して恥ずかしい、場合によっては頭を打って……との恐さで問いかけての、雪駄で滑る大理石の床の上を歩き続けるということの結果として、次第次第に大理石の床の微妙な凹凸という構造が視えてきたのだと、要するに、恐さを持って必死に対象=大理石の床に問いかけ続けたからこその、である、と思える。

その様に、雪駄で滑る大理石の床を歩くという実践を捉え返してみると……自身の手技の施術、例えば、背部の指圧を行う時に、一歩間違えば大事になるとの「恐さ」で押しているだろうか?もしもその様な問いかけでの指圧の手技を行なっているならば、患者の身体の歪みや凹凸や……といった様々な状態が、情報が、視えて来る、来た筈であると思えた。にもかかわらず……である。恐さを持っての施術を!と決意された。一見、平らな様で、よくよく視ると微妙な凹凸の連続である。大理石の床面の凹凸に対して、雪駄の踵の金具だけで立つ形になれば、容易に滑って転倒ということになるのだと思う。
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