現存する世界最古の木造建築物としてあまりにも有名な法隆寺(別名斑鳩(いかるが)寺)。
しかし、その創建については、今だ多くの謎に包まれているようです。一般に、聖徳太子の
創建と言われてきましたが、その太子自体架空の存在であったという説が有力なのだそう
です。でも、太子のモデルとなった人物(厩戸王または九州王国の王)がおり、7世紀の早い
時期、この斑鳩の地に仏教寺院を建立した(あるいは移設した)ことは史実のようです。
現存する西院伽藍(金堂、五重塔、中門、回廊)の建設時期についても・・、日本書紀の
670年に当たる記事「・・災法隆寺一屋無餘(法隆寺は一屋余すところなく焼失)」をめぐって
「再建、非再建論争」が起こる。建築用材の伐採年代の科学的調査などにより、現在では
670年の火災以後700年代の初期までに金堂、五重塔の順に再建されたという説が有力
ということです。100年くらいどうだって・・なんて言いっこなしですよ。
さて、金堂と五重塔を見ます。
金堂。入母屋造の二重仏堂。二重の屋根が堂の壮大さを一層引き立てているようです。
雲斗、雲肘木など曲線を多用した木組み、二階の卍くずしの高欄、それを支える「人」字形
の束(蟇又)など法隆寺独特のもの。(後に見る法輪寺、法起寺の三重塔とは共通)
内部に釈迦三尊、薬師如来、四天王など飛鳥のこの上ない貴重な仏像を安置する。
五重塔。最上層の屋根の一辺は初層のそれの約半分。それほどに屋根の低減率が高い。
初層には簡素な板葺屋根の裳階を有する。雲斗、雲肘木、高欄など金堂と共通の特徴を
持つ。
これらの建物の周りを歩きながら思うこと。不思議なことにこれが日本最古の建物である
という感じがしないのですよ。それは、立派な補修管理が為されていることもありましょうが、
それ以上に、その後築かれてゆく日本独自の建築様式とは違ったもの<それは大陸、
あるいは忘れられた仏教王国の影響を生のまま色濃く反映したもの>それが一種の斬新さ
を感じさせるののかもしれない・・そんなことを考えていました。









しかし、その創建については、今だ多くの謎に包まれているようです。一般に、聖徳太子の
創建と言われてきましたが、その太子自体架空の存在であったという説が有力なのだそう
です。でも、太子のモデルとなった人物(厩戸王または九州王国の王)がおり、7世紀の早い
時期、この斑鳩の地に仏教寺院を建立した(あるいは移設した)ことは史実のようです。
現存する西院伽藍(金堂、五重塔、中門、回廊)の建設時期についても・・、日本書紀の
670年に当たる記事「・・災法隆寺一屋無餘(法隆寺は一屋余すところなく焼失)」をめぐって
「再建、非再建論争」が起こる。建築用材の伐採年代の科学的調査などにより、現在では
670年の火災以後700年代の初期までに金堂、五重塔の順に再建されたという説が有力
ということです。100年くらいどうだって・・なんて言いっこなしですよ。
さて、金堂と五重塔を見ます。
金堂。入母屋造の二重仏堂。二重の屋根が堂の壮大さを一層引き立てているようです。
雲斗、雲肘木など曲線を多用した木組み、二階の卍くずしの高欄、それを支える「人」字形
の束(蟇又)など法隆寺独特のもの。(後に見る法輪寺、法起寺の三重塔とは共通)
内部に釈迦三尊、薬師如来、四天王など飛鳥のこの上ない貴重な仏像を安置する。
五重塔。最上層の屋根の一辺は初層のそれの約半分。それほどに屋根の低減率が高い。
初層には簡素な板葺屋根の裳階を有する。雲斗、雲肘木、高欄など金堂と共通の特徴を
持つ。
これらの建物の周りを歩きながら思うこと。不思議なことにこれが日本最古の建物である
という感じがしないのですよ。それは、立派な補修管理が為されていることもありましょうが、
それ以上に、その後築かれてゆく日本独自の建築様式とは違ったもの<それは大陸、
あるいは忘れられた仏教王国の影響を生のまま色濃く反映したもの>それが一種の斬新さ
を感じさせるののかもしれない・・そんなことを考えていました。








