本日、午前中はばあちゃんの茶話会。年度初めなので包括支援センターから職員の方が来て、登録カードの更新。書き方に戸惑う人には噛んで含めるように説明。職業柄とは言え、あの気の長さは見習わなければ。
午後から外出。ついでに東千田公園の広島江波山桜を見る。
市内電車、日赤前下車。すぐ目の前。
元は広島大学東千田キャンパス。教養部、理学部、政経学部、教育学部、文学部があった。戦前は広島文理科大学。
戦後、大学、師範学校、その他の学校が集まって新制広島大学となり、現在は東広島市に統合移転。市内霞町には医学部、歯学部、薬学部が残る。
以前はなかった広島江波山桜と、高いのはメタセコイヤ。
花の下に人は集う。
元々は広島市内の江波山に一本だけある広島江波山桜の枝を挿し木して増やしたもの。
八重咲のヤマザクラ。花弁が多く、花は20個くらいが房状に咲き、豪華です。
突然変異で出来たと考えられ、20年?くらい前に市?の天然記念物に。
元の木は根元にアスファルトの道があり、後ろは崖で条件が悪いのか、近年弱っています。次の世代が元気で育ちますように。
八重咲のヤマザクラ。あでやか。
実は生らないので挿し木で増やす。
でも枝を勝手に採ってはいけませんね。桜はそこから腐っていくと聞いた気がします。
元のグラウンド付近はタワマンに。奥のPの場所に文学部があった。
突き当りは左が理学部、右は政経学部があった。その前は広島文理科大学の建物。戦争末期には軍が接収して中国軍管区本部が置かれていた。
被爆建物なので壊すことはなく、利用の方法も決まらないらしく(未確認)、そのまま残っています。
教養部付近は公園に。春の日、子供たちや家族連れが遊んでいます。テント張っている人も。楽しそう~
教養部は3階の建物で、いちばん奥が美術教室、美術準備室がサークルのたまり場だった。
ここで私は今の同居人を調達したのでした。自宅通学だったので、大学にはお弁当持参、昼休み、一人で食べていた。
旧北門。
教養時代は全部の学部が一緒に学ぶ。どういういきさつだったか詳細は忘れたけど、たぶん学食で声かけられたんだったかな。
話の要旨は「あなたと同じ高校出身で**学部、夕方5時に正門で待ってる」というもの。我が高校は一学年約千人のマンモス校、私は高校時代勉強せずに遊びまくっていたので(学校帰りにうどんを食べながら友達♀と人の噂話をする、お互いの家に行ってお菓子を食べながら噂話をするなど)目立つ男の子はたいてい顔くらい知っていたけど、知らない人。
真面目そうな人だったけど、その頃の私は未熟でそのことの価値に気が付いてなかった。それに何よりも、遠い所へ来てまで同郷の人と付き合う気になれず、その日だけは北門から帰る。
今の夫とは同じ学部で、私にすっぽかされたとあとで言っていたらしい。すみません。
私は容姿も目立つわけではなく、背はすらりと高くなく、ごく普通の女の子であったわけですが、何でも面白がりよく笑う性格は、服で言うとユニクロ的手軽さ。それでカースト制度厳しきマンモス高校で、腐ることなく生き延びてきたのでした。今の反省はもう少し勉強すればよかったのですが、勉強より遊ぶ方か楽しかったのでつい。。。。親ももっと厳しく言ってくれればよかったのに、と人のせいにしてみる。
学校新聞に連載漫画頼まれたこともあるし、この縁は卒業後も続き、秋休みに帰省すると文化祭の展示のイラスト頼まれたこともある。下手なのに。
ああ、いかんですね。昔の場所を訪ねて、いろんなこと思い出した。自慢話になっていたら深謝。
高校で同じクラスだった子♀の下宿を訪ねて、私のところへも来てもらい、それから正門付近の店でお昼を食べて別れたのだった。その日の希望と心細さと。同じ季節、同じ春の日差しの下でその時の気分をまざまざと思い出した。
丁度今頃の季節。彼女もずっとこの地にいたけれど、体調悪く、家を整理して子供さんたちの近くへ行ってしまった。もうこの世では会えないのかと思うと切ない。
北門から電車通りへ回る。
変わらない中華料理の店。
五目そばが好きだった。当時は150円。消費税なし。
学生は殆どいなくなったけど(二部と通信制が残る)、学生街の値段。
人の体は思い出の容れ物。溢れることもなく、積み重なって行く。たまに底の方に手を入れて、古い記憶を取り出してみる。未熟でものを知らず、それでも元気に笑っていた日が遠いようでもあり、ついこの間のようでもあり。
ポケットの中の古い硬貨を握りしめるようにして、またこれからの残りの時間を生きていく。