「嵯峨野」スマホを見ながら観光する外国人。今の京都。2018年12月
京都大学の総合人間学部大学院の講義録を本にまとめたもの。修士課程だろうか。
まず資料を読み、実際に京都市内のその場所を歩いてみる。交通費や入館料は大学から補助が出るという楽しくも知的刺激に満ちた勉強のようで、誠に羨ましい。
いいなあ、私もこの大学行けばよかった。学力が届かなかったのが残念だけど。
場所は主に左京区、北の出町柳、北白川から始まり南は八条から深草まで。取り上げた人物は桓武天皇から始まり、古代、中世の歌人、紫式部、清少納言は言うに及ばず、後白河法皇、定家、世阿弥、近代文学、川端康成、三島由紀夫、高橋和巳、和辻哲郎、西田幾多郎などにも話が及ぶ。
たくさん本を読み勉強した人には、京都を歩いていると、それを見たたくさんの人の言葉がいまだにそこに漂っているように錯覚するのであろう。
ここまでは一般的な感想。
で、私が蒙を開かれたのは、現在京都的と思われている京都文化の神髄は、天皇や公家が東京に去り、残された裕福な町衆の文化が拡大したものらしいと言うこと。そこからの目線は厳しい上下関係にさらされ、中心部と周辺部がはっきり区分けされるけれど、あるのに語られない部分もあるということ。南部のコリアンタウンなど。
それもまた京都奥深さ。東京資本が都合よく組み替えた「京都らしさ」を消費するだけでは、本当の京都の姿に辿りつけないと言うことも分かった。
京都の人は南北には移動するけど、東西には動かないらしい。それそれの場所で用が足りるのも古い町の特徴かもしれない。
長い間、支配と被支配が複雑に絡み合い、見下し見上げる目へ返す視線の厳しさ。それは分をわきまえる賢さと、それを逸脱する者への無言の蔑みの姿勢。それを洗練と言えば洗練。人が密集して住む場所独特の文化。
全編を通して定家など、新古今の歌が引き合いに出され、それも的確。
著者はドイツ文学を専攻し、ソウル大学で東洋哲学も修めたそうで、まさに博覧強記。講義を受けられる身ではないけど、面白く読みました。