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小室圭さんのこと

2021-10-12 | 随想

ずっと否定的な意見が多くて気が滅入っていましたが、そうでない人もいることが分かり、ちょっと安心しました。

小室圭は何が悪いのか?【嫉妬とネットリンチ大好き国民】 | ぼっちライダーのひとり旅 (lornrider.com)

ちょっと前、ニューヨークの街をテレビで見ました。ビルがたくさんで、きらきらしていて、お若い二人が早く彼の地で新生活を始められたらいいなあと思いました。頑張って勉強して資格とったのに全然褒めないばかりか、未だに何のかんのと言いがかり。いつから日本人はこんな情けないことになったのでしょう。

(変な人と)結婚したら皇室の権威が地に落ちる、敬愛できない、もう解体するしかないなんて言うのは言いがかりで暴論ではないでしょうか。

あなたの敬愛はその程度のものだったのかと問いたい。私は自分の思いを貫いて立派だと思います。ご本人がこの人がいいと言っているのに、なんでえらそげに口を出すのかとはなはだ疑問。その根拠は何?

解体するしかないと言ったって、制度の解体は国民の総意が必要、憲法上は。今の憲法では国民が主権者、国民が象徴天皇制を選んだのだから要らないと決めるのも国民。

特定の個人を言いがかりをつけて叩きまくる。人が幸せになるのが妬ましい人は心が病んでいるとしか思えませんが、こんなことがこの先繰り返されるなら、誰も皇族と結婚しようなんて思いませんよね。身内の話を暴かれて叩かれるなんて、考えただけでもおぞましい。

今回の反対意見は、皇室のためを思っているつもりでも、実は逆になっているのではないでしょうか。そのことに早く気が付いてください。いえいえ、ただ面白くてネット上で騒いでいるだけ。底は浅いと思います。

私の友人の一人もこの件では容認できない派で、何の根拠も示さずに「在日」と決めつけていました。「在日」・・・嫌な言葉ですね。差別感丸出し。友達止めようかと思った一瞬でしたが、他の所はいい人なので、この先どうしますかねぇ・・・

こういう素朴な差別主義者が、マスコミの操作で、はたまたネット上での噂で人を傷つけるのでしょうか。誠に暗澹とした光景。

スッキリとした秋空のように、早く新しい一歩を踏み出していただきたいもの。

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東京

2021-07-17 | 随想

きょうは東京の日だそうで、ブログのお友達がそのタイトルで記事書かれていた。それに喚起されていろんなこと、ズザザザザッーと思い出し、まあこの先まとめて書くこともないだろうから書いてみることにした。

2010年8月 浅草


初めて東京へ行ったのは1967年2月末。

目的、私立大学の受験。私18歳、同行者、実母、41歳。服装は高校の制服に買ってもらったばかりのスプリングコート、寒かった。母は旅行だからとこれまた洋服。寒そうだった。

交通手段。四国高松から対岸の岡山県宇野までは国鉄連絡船。約一時間の船旅。そこからは夜行列車の急行瀬戸。東京まで12時間くらいかかったかな。宇野線、山陽本線、当時新大阪までだった新幹線なら2回の乗り換え、で直通列車に乗ったと思う。

静岡くらいで夜が明けたのかな。富士山見たかどうか記憶にない。寝台車は六人一部屋。朝には三人掛けの向かい合った椅子二つになる。コンパ―メントのメンバーは、いまはなき東京教育大学の体育科を受ける徳島の男の子、屈強。私大の医学部を受ける気弱そうな松山の男の子、母親同道、出張旅行の中年男性。それに私たち親子。

本州に向かう連絡船は高松発のみだったので、四国の鉄道線路はすべて高松に集まり、桟橋に向けてホームが並んでいる。日本では大きな都市でも鉄道が接続しているので、路線が複数の頭端駅は珍しい。今は連絡船はありませんが、線路はやはり昔の桟橋に向いて終わっている。故郷の好きな光景です。

東京駅には結婚したばかりの、祖母違いの従兄が迎えに来てくれていて、そこで母が預かっていた海苔巻き寿司の重箱を渡す。高田の馬場駅近くの宿まで送ってくれたのかな。宿に荷物置いて文学部へ行ってみたと思う。そこだけ本部と離れているのです。

受験生らしい女の子、長い髪に真っ赤なミニ丈のオーバーコート、黒いロングブーツ、都会の女の子に目をぱちくり。

宿は和風旅館。暖房なし。廊下に面して部屋が並び、鍵もなかったような。だから女親がついて行くのが普通だった。親も旅行できて一石二鳥。

創立者の銅像のある大きな大学の、私は50人くらい入る教室で受験。試験は国語、古典、英語、日本史だけ。一日で終わる。後ろの席の男の子が試験中に私の背中をつつき、「あのう・・・チリ紙ください」というので後ろ手で渡す。ポケットティッシュなどのはるか前。あの子、受かったのかなあ。

私は受かったけど、父親に強硬に反対されて東京へ行かせてもらえなかった。願書出すときは父は胃の手術で入院中、その時も反対されたけど、無視してたのでした。

半世紀以上前、東京はとても遠いところでした。それに私自身、東京で是非これをしたいというものがなかったので親を説得することもできなかった。


結局、こちらの学校へ来て、在学中には二回東京へ行った。

一回目は高校時代からの彼氏に会いに。二回目は別れを言いに。このあたりのことはあまり書かない。ユーミンなら「恨んでも覚えてて」だけど、あまりに長い時間が経ってしまって、いろんな感情も薄れてしまった。都合悪いことは忘れることにしている。

弟の下宿に帰ると「遅かったけど何してたん」と聞かれたので、「別れ話がこじれていた」と答える。その日は新宿から高田の馬場まで夜道を延々歩いていた。

別れるのに言葉はいらない。黙ってfade outすればいいのに。わざわざ行くなんて。若くて未熟な私。東京は少し甘美で、とても苦い思い出の街。


子育てに忙しいころ、友達に手紙を書くような気持ちで小説を書いていた。誰にも見せないけれど、自分が慰められる自分の読みたい小説。人付き合いに臆病で、うまく会話のできない私の唯一の気持ちを吐く場所。

たまたま市が市民の文芸作品を募集して選考し、本にするという試みが始まり、それを息子たちを体操教室に連れて行った施設にポスターで知った。

締め切りまで一か月、100枚まで。書き始めたら、あまり苦労せず97枚になったのでキリで穴をあけて紐を通して、封筒に入れて応募した。その頃は原稿用紙に手書き。

それは思いがけずに賞をいただき、本にもしていただいた。今は読み返すことはないけれど、初心な素直な作品。それがよかったと思う。素人が技巧に走ったっていいことはない。

それがきっかけで地元の小説の同人誌に誘われ、そこで書いたものを見てもらったりしていた。

同人雑誌は多士済々、癖のある、面白い人が多かった。何かのつてで東京から参加した人が、「東京はサラリーマンの住むところじゃない。東京は才能のある人が自分の夢を実現するところ」と言っていたのが印象に残っている。

そうなんだあ。そんなんだろうなあ。


1980年代の終わり、出版社に御縁ができて何度か上京。飛行機や新幹線で。東京駅の丸の内口へ出ると、タクシーがずらっと―客待ちしていて、行く先注げるとどこへでも行ってくれると思うくらい、私は田舎ものでした。

出てもなんか広々しているだけで、タクシーなんていないし。地方都市とは違う都会の大きさにいい年して驚いたり。

今はなき赤プリのレストランへ出版社の人に連れて行って貰ったこともありましたね。

フランス語に日本語を併記したメニュー見ても何頼んでいいか分からないし、最後にお任せコースというのが手書きで書き加えてあって、それをお願いして事なきを得ましたね。ホテルのエレベーターに乗り合わせた和服着た女性がものすごくきれいだったり。いゃあ、田舎者には東京のいちいちが驚くことばかり。

あの時は結局、最寄りのJR駅前でタクシーに乗ったら「下町専門なので知らない」と言われてびっくり。手持ちの地図で私が道案内。東京まで行って、なんで私がドライバーさんに道を教える・・・と思ったけど、どんなことでも起きるのが大都会でありましよう。

出版社との御縁も切れた後は、旅行で何回か。結局、全部で10回くらいしか行っていない。若い時は、遠くできらきらと輝く魅力いっぱいの都市というイメージだったけど、今は大変なことになっている大変な場所というイメージ。

オリパラはするのでしょうが、なるだけ傷は小さく、そしてまた人の集まれる魅力いっぱいの街になって復活していただきたいものです。


2010年8月。東武橋から。


高校の同窓会、東京在住者は元気いっぱい。それはきっと長い間、東京の持つエネルギーに当たり続けたからでしょう。楽しいこといっぱいありそうだし、何でもできそうだし。

でも私は行くともう疲れるかも。もう行きたいとも思わない。会いたい人も行きたい場所もない縁のない場所。そう思うと少し寂しい。

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夏の家居に

2021-07-16 | 随想

近所の駐車場の端に生えていた、メヒシバにエノコログサ。

野草は耕作地には生えない。純粋な山野草のことでしょうか。

雑草は田や畑に生えて作物と競合する。競合せずに水田や畑の周りの人手の加わった場所を生育環境とするものもある。

水田の雑草はイネと一緒に伝わってきたと考えられ、主なものはメヒシバ、オヒシバ、イヌビエ、シロザなど。(湿田ではまた違う植生)

我が家付近は明治期に干拓した、元からの市街地。この百年あまり、水田になったことはないけれど、上記、イヌビエ以外はよく見る。ヒエはイネと同じ環境でないと育たないけど、他のは水田の縁から乾燥した市街地のほんの少しの土の上まで、環境に適応しやすいのだと思う。

シロザ、アカザはホウレンソウの仲間。徒然草には、貧しい食べ物の例えで「藜の(こんな漢字なんだあ、パソコンが勝手に変換した)おひたし」というのがある。室町時代は食べていたのでしょう。今でも宅地造成したようなところにまず顔を出すのがシロザ、アカザ。

どんな味?ホウレンソウみたい?

道に生えている草も、環境に適合し、生存競争に勝った結果と思いながら見ると楽しい。

このほか、我が家付近で子供のころに見たことなかったのはヘラオオバコ(外来種)、ヒルガオ、最近ではチガヤなど。道路の緑地帯に群落作っている。やがてススキへと変わる。ススキもたまに見るので、秋にわざわざ買いに行かなくていい。

車道と歩道の段差にたまったわずかな土に根を下ろして、たくましい。

光。


友達のお嬢ちゃんが作った携帯ケース。

長らく死蔵していたけど、くっつけてみました。

紅絹裏を割いて咲き織りにしたもので作ります。

山葡萄の籠バッグはたいていのものが合う。それはバッグというよりはインテリアか建物の感覚。何でも受け入れる。

今だとブラウスの、レースの替え襟。秋だと紺絣の袋。冬は毛皮系統。いろいろ工夫して、楽しく持つ人のブログもありました。


先日、広島駅前エールエールA館地下の百均で、とても素敵な山葡萄持っている人が。太くて曲がったひごで編んだ個性的な逸品。こんな感じ。

山葡萄bag 7 | iichi ハンドメイド

実物見たのは初めて。いえいえ、見ていたかもしれないけど、興味ないので他の籠に見えていたと思う。

いくらぐらいかなあ。国産のツルだと最低でも10万とか20万とか、そごうで見たのは35万円だった。

買ったばかりなのにあんなのも欲しいなあと思った。そんなことにお金使うのが、他に楽しみのない寂しい人生かなと思い、すぐに買うのは自分に許せない。

それで山葡萄貯金することにしました。原資は日々の節約。無理しない程度に。先日は外でご飯食べてもよかったけど、帰宅。冷凍うどんにおかず適宜。それで千円節約できたので、そのお金、別にしておく。

10万円だと100回の食事代。週一でためて100週間、2年半くらい?

目指せ、山葡萄二個目。

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今の時代の送りかた

2021-02-14 | 随想

二軒隣の方が亡くなった。年齢は80代半ば。一緒に茶話会していたのに、ごく近所なのに全然知らなかった。

聞いたのは昨日。年末に亡くなって、年明け、茶話会お休みだったから、知らなかった。

町内会の香典持参した人によると、固辞されて、お孫さんから「しつこい、帰ってくれ」と言われたそうな。

都市部で葬式が簡略化していくとよく聞くけど、ここまで進んでいるらしい。

それでいいのかなあという気持ちも私にあるけれど、大げさにしたくない、手間をかけたくないというご遺族の考えなら仕方ないかとも思う。

昔の葬式は賑やかで、地域総出で、形式にのっとって送り出して、遺族は心の整理をする、共同体は続いていく。

人は一人では生きられず、助け合うことが大切と教えられたけど、今はお金さえ出せば隣の人にも死んだことを知らせずに済む。お金も少しで済むらしいから、楽に流れるのは仕方ないのかなと思う。

葬式に出たいのは、お見送りしたいのは、生きてる人間が心にけじめをつけたいから。そのけじめのつけ方も時代とともに変わるらしい。

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その後のこと

2020-09-01 | 随想

まだまだおいしいスイカ


現在97歳の姑様が入所中の介護施設、新型コロナの流行で家族が出入り禁止になって早や半年。今はいつお見舞いが再開されるのか、目途が立っていない。

一年と七か月前、入所した時にはまさかこんな日が来るなんて思ってもなかった。

家が隣なので、最後まで引き取ることはなく、通いで介護。

入所当時の姑様の状況。

前年、大腿骨頸部骨折で手術、リハビリするもしばらくすると自力歩行不能。抱えて移すと、椅子に座ることはできる。食事は普通食、食欲普通。時間かけて自分で食べる。最後の方は手づかみも。耳はほとんど聞こえない。二度の軽い脳梗塞で、発語がほとんどできない。反応はある。とこんな感じ。介護度は4。

週に4日、全日デイサービスまたはデイケアに通う。1日はヘルパーさんが訪問して食事の介助と後片付け、洗濯をしてもらう。

夫、オシメ替えと在宅時の食事の介助。便秘気味で週に一度の浣腸と始末。あとは洗濯。

私、食事作り。食事は夫が運んで一緒に食べる。洗濯。衣類の管理。掃除。オシメ替えは会合などでいないときは私がする。一年足らずの自宅介護中私がしたのは10回くらい。

今、介護度4の人の在宅介護を振り返って思うのは介護保険のありがたさ。それに尽きる。

すべてを家でするならば、夫と二人、他に何もできず疲労困憊していたと思うけれど、週四日は昼間不在、一日は朝と昼のケアはヘルパーさんが、あとはベッドで横になって眠っていることも多かった。

また二回、ショートステイに3日預けて、夫と旅行した。一回目は岐阜、高山など。二回目は城崎温泉など。ほかのどんな旅行の時よりも解放感があり、しみじみと楽しかった。今は当たり前になって、あの楽しさを忘れている。

昨年お正月明け、夫が突然ぎっくり腰になり、体の前後屈もできなくなり、ケアマネさんに相談して施設にとりあえず2週間の予定で預かってもらった。

本人は、オシメ替えの時に中腰前傾姿勢でで姑様の腰を上げたり、右左に動かせるのが悪かったと話しているけれど、それ以外にも背負って階段上がり降りしたのも原因と私は思っている。

子育ても介護もしたことない人にはわからないと思う。子育ては自分が産んだ子は育てるけれど、介護は産んでもらった親だからと全員がするわけではない。するかしないかは、その時の介護する人の事情に左右されるけれど、結局は近くにいる子供が引き受けるのが流れ。

夫は、自慢することではないけれど、よく頑張ったと思う。初めのころは、親がいろいろなことができなくなったことが理解できず、怒ったこともあったらしく、私が行くとベッドの中で怯えていた。

「**さん、袋縫うので裂きれ、頂戴」

もう縫物なんてできる状態ではなかったのに。

「お母さん、どんな裂きれですか」

「何でもいいから裂きれ頂戴」

「ほっとけ、明日になったら忘れとる」

とまあこんな会話。

翌日は言わなかった。

ベッドの中で、何か縫物しようと思うことが、姑様の最後の心の砦だったのかなと今になったら思う。

でもそのあとは怒ることもなく、気長に介護していたと思う。人に話すと、男の人がオシメ替えるのは稀とのこと。

そうなんですか。自分の親なので、やるのは当然と私は思います。夫は私たちの三人の子供のオシメ、ほとんど替えたことないので、その代わり。そう思えば辻褄が合います。

そうなるずっと前から夫には常々、お母さんの介護はあんたがしてね。長男の嫁の私がしたのでは当たり前すぎて誰も目に入らず、気が付かない。息子がすれば、世間はよくできた人と感動し、お母さんも喜ぶと。

我が家では大体その通りにできたと思います。私は少しは介護を体験したことで、いろいろなことを知ることもできました。

人はみな、周りに面倒掛けず、認知症にもなりたくない、元気でいたいと思いますが、どんな最後になるかは自分で決められないこともたくさんあります。思うようにならないのが人生の常、特に老年期はもう流れに身を任せるしかない。そう思います。

その時必要なのはある程度のお金と、良好な周りとの人間関係と思います。どちらが欠けてもいい介護にはならないのでは。

姑様が施設に入るまで、一月最低でも20万円以上かかると聞きましたが、それは豪華な自費?の施設では。広告でよく見るのもこの種類のようで、姑様は食費は実費ですが、それを含めても一割負担で月に13~15万円程度の支払い。半分は夫の弟が、自分の仕事の役員報酬として仕送りしてくれるので、残りを夫が姑様の通帳から引き出して払っているようです。お金のことは私はノータッチ。

しかし、介護する側の人間関係がぎくしゃくしていて、誰か一人が自分だけ犠牲になっていると思うようではいい介護はできないと思います。

夫は心の中ではどう思っているか知りませんが、愚痴を口にすることは一度もありませんでした。一度、「最初のころ、お母さんに怒っていたよね」と言うと「悪いことした」とはらはらと涙こぼすので、それからは言っていません。

出来なくなるまで、料理も自分でしてた姑様。ご飯を二合炊き、ずっと保温。三日目くらいには硬くなって色も変わる。それでも食べていた。野菜各種を刻んで鍋で似て、食事の度に煮返して、最後は野菜の形が分からなくなったのを食べていた。それに卵かけごはん。

何かしましょうかと申し出ても、できる間は絶対に頼まない人でした。嫁は使ってなんぼという発想のない自立した人でした。

気難しい舅様の仕事を助け、添い遂げ、最後まで自宅で介護したスーパーな人、子供たちもそれが分かっているから嫌がらずにお世話できたのでしょう。県内にいる義妹は二か月に一度、二泊して介護してくれました。自分も姑を抱える身、それが精いっぱいだったと思う。義妹は一時、二人の介護をしていたことも。

子育てはどの子もよく似ているし、どんなに手がかがっても6年もすれば小学校へ上がる。しかし介護は千差万別、しなくて済む人から、複数を長年にわたりする人まで。

私のささやかな体験から、介護している人には「頑張って」とか「自分の親だから見てあげてね」と言うよりも、「そうなの」と、相槌うつくらいで黙って話聞くだけの方が励ましになると言うことに気が付きました。近くでそんな人がいたらぜひそうしたいと思います。

人は認知症になった時に、元々の自分が顕れるのではないでしょれうか。うちの姑様は、嫁にとっては楽な人で、感謝しています。

今思い出すエピソードいくつか。

銀行へついて行くと、二百万おろすと言われて焦ったこと。多くないですかと言うと、じゃ百万って。夫に電話したら好きにさせろと言うので、払い出し表と通帳窓口に出したら、窓口の人、顔色替えて、一番奥の一番偉い人に相談、余分に書類いろいろ書いて、やっとお金貰った。

姑様の第一声。

こんなにおろすつもりなかった。10万くらいのつもりだったって_| ̄|○

歯医者にお供した時にも財布の中に万円札、ぎっしり入っていたことも。まだまだ歩けて、普通に話していた時です。

私の胸に腫瘍が見つかった(生検での結果は良性。この時は結果待ちの期間)と、夫がうっかり話して、姑様がすぐとんできて「寝てなくていいの」と心配してくれた。いやあ、ふつう、寝なくていいでしょう。

その時、裏の60坪が空き地になっているのに気が付いたので、「5,500万だがどうかと言われて。うちではとても買えないです」と言うと「えっ、5千円?」と言う反応。「5千円でなくて5,500万円です。5千円ならすぐかいます」「えっ、5千円?」

もう少し続けてもよかったのだけど、エンドレスなギャグになりそうでそこで終了。

こんなこと書くのは尊厳にかかわるのでしょうか。そうではなくて、どんな人でも年を取る。そのことを身をもって教えてくれたと思っています。

浣腸のことを書きましたが、私は立ち会ってないけど、そのお世話は楽で、逆が困るのです。介護された方なら、皆さん経験済みでしょう。

気持ち悪いので、見られると恥ずかしいので、自分で何とかしよう、と思うのでしょうか。結果は悲惨なことに。本人の体や、周りのありとあらゆるところに汚れが付き、後始末、夫と二人で25時・・・26時だったかな?くらいまでかかったことも。

同じく実母を引き取ってお世話した人は「もう、殺そうと思った」と正直に話してくれました。それは私が似た体験したと知ったから。そうでないと話してもらえなかったと思います。

ケアする人のケアの大切さが最近言われるようになりました。介護する人も疲れて追い込まれている。その人への心配りが大切だと。

でも実際に体験した人でないとその大変さはわかりません。遠くの親を自分のきょうだいやその連れ合いに世話してもらっている人は、是非、そのことを忘れないでいただきたいのです。

宵の口に寝てしまってので、未明から書き始めました。静かで、ゆっくり振り返ることができたと思います。

介護はするしないはほとんど運命、してもらう、してもらわずにこの世と別れるも運命。何事も逃れられないのが運命ならば、その中でより良い方法を探し、人の助けも大いに借りて乗り切って行くこと。それしかないように思います。

私ですか?

姑様のお世話の只中にいるときは閉塞感でいっぱいでしたが、今振り返ると無駄な体験ではなかったと思えるようになりました。自分の老後の参考にもなりました。

そして命の圧倒的な存在感です。自分で何もできなくなった人間は不要と簡単に片づけられるほど、人の命はやわではありません。その人の人生が凝縮した最晩年は、人それぞれの多様性、食べて排泄するだけでも生きている命の強さ、そしてどんな姿になっても生きていてくれることで力づけられ、支えられる家族がいる限り、その人の命は尊くてかけがえのないもの、私はそのことに気が付きました。

いくら何でももうそろそろ寝ないと・・・皆様、おやすみなさい。

梅ケ枝餅。自作しました。2016年9月。

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夏長けて秋未だ遠し

2020-08-26 | 随想

高齢者は適宜冷房つけて・・・と言われるけど、とうとう今年の夏も就寝中、冷房なしで済ませた。寝るときに開ける窓は三つ。タイマー付けた扇風機で風を通す。

同居人はどうしているのかな・・・只今、家庭内distance励行中。二階の一番向こうの部屋で寝ている。

多分閉め切って、一晩中エアコンつけて、冷え冷えとしていることでしょう。

私が部屋を開けて寝られるのは、家の中に男という名の人が、一人いるから。その安心感。感謝しているけど、将来一人になったら、要所要所の窓は格子を付けて、夏はやはり開け放して寝たいもの。

気が付けば、しみじみと昔人間になっている。

夏休みの終わりのころだったかな、祖父が私と弟をお寺の法座に連れて行ってくれた。途中の大きなムクノキの下で、祖父が弟に自転車の練習させたら乗れるようになったから、その時は子供用自転車は私が乗って、弟は荷台に乗って行ったのかも。

夏には夏のあれこれを思い出す。

はるばると来ぬる我が人生かな。

出かけないので室内をば。

わっ、写真大きすぎた。

最近、日差しが斜めになって部屋が暑いので、ブラインドを下ろし、あれこれ置いて目隠し。

家の前の道に出てみる。庭木もあるけど、こうしていると何となく安心。

近所の甘味処「梅丸」さんの・・・何だったかな、抹茶アイス。

これは昨年、今年はまだ行けてない。

京都御所西隣、虎屋のかき氷、おいしかった。

自分の画像探しけたけど、Niftyのホームページのサービス終了で消滅。残念。

こんな感じでした。

https://macaro-ni.jp/62543

またいつか行けるといいけど、京都の暑さに軟弱になったこの体がついて行けるかどうか。

幻のかき氷。絹のような氷。京都はかき氷だってみやび。高いのはみやび代。

虎屋は元は京都のお店で、明治天皇について東京へ行ったんですよね。御所横の店の庭には、16世紀に敵に追われた戦国武将をかくまったという蔵が。

もちろん修復しているはずだけど、確かに蔵がありましたね。

京都と言えばこの人、

大学自動車部の昔のホームページ、まだウェブ上に残っていたので、顔加工してないのと二つ、画像フォルダに入れた。

何しているかと言えば、大学対抗のレースで、道路わきに事故車がいると見せかけて、他大学の注意をそらし、味方チームの勝利に側面から貢献する・・・

筈が、誰もそんな小細工には目もくれず、唯一、同じサークルの後輩たちに受けまくり、笑いを取り、結果として全く反対の効果しかなかった模様。

いったいなんやねん?

ごく小さい時から、面白いことするのが大好き。学部四年間は落研も掛け持ちで忙しかった模様。

自動車の整備全般自分でするし、人のまでするし、兄の結婚式では南京玉すだれで皆さんに喜んでいただいたし、あとは子供ができると言うことないんだけど。まあ何もかも望むのは欲張りと言うもの。と私を慰める。

お正月はお嫁ちゃんが風邪で来なかったので、もう一年会ってない。ラインは時々あるけれど。

かき氷の写真探していて発見。

2015年6月、フランス南西部、ガヴァルニー圏谷。

雪を頂くあの山の向こうはスペイン。こちらも巡礼路だったかな。そんな説明だった。

雪を見て少し涼しくなりたいもの。

友達が、私の電動糸巻き機見て、使い方、いる道具など教えてほしいと言うので、涼しくなったら来てもらう。

その前に整経台の改造。

初め、ビニールパイプをカットして、ミシンのボビン糸まくところに割りばしと布巻いてパイプを固定して糸巻いていた。涙ぐましい工夫。

糸立てるところはパイプに合わせた太さ。

今は東京手織りの糸枠と大管に巻いているので、作り替える予定。

夫に頼むのは糸立ての棒をカットして、ステンの細いパイプを整経台の幅にカットしてもらうこと。機織りしない人に説明してもなかなか通じないので、今朝はよけい暑くなる。

改善後は、8本の糸で整経するので時間は半分になるはず。それで友達に見てもらいます。

いずれにせよ、夏が終わるまで全部お預け。陽水の「夕立」ですね。

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夏の音

2020-08-17 | 随想

広島港から、似島と向こうは宮島 2018年8月。

昨夜のリモート帰省で、三男が、次男のマンションから海が見えるのかと次男に聞いていた。

見えますねえ。似島もよく見える。私が住みたい。。。。


昨日、押し入れ明けて布団出してみたら、ちょっと微妙な匂いが。

考えてみたら、最近は長男一家が泊まることもなく、布団の管理がおろそかになっていた。

昨日はそのまま干したけど、まだ少し匂いがするので、今朝からカバー外して次々洗っている。

布団も毎日、匂いが抜けるまで干すつもり。丸洗いすればいいんだけど、今の敷布団はマットレスみたいで大型の洗濯機にも入らない。使い捨て前提なのかな。

最近は通気性のいい、繊維質が全然ない合成樹脂、海綿状の敷布団があり、中身も家庭で丸洗いできるのもあるそうです。

しかしまあ、とりあえずは今の布団で。暑いので諸事秋まで延期。


今は家の中と回り、とても静か。

夏、窓を開け放して気になるのは生活音。お互い様なので、目くじら立てる必要はないのだけど、朝6時前、夜は10時過ぎても吠える犬の声、それにかぶさる飼い主の叱声。

ワン、こりゃ、ワン、こりゃ、ワン、こりゃとしばらく続くので、あんたの方がうるさいでしょと思わず心の中で突っ込んでいる私。吉本の何かのネタにしてもらえない?

まあ、連日でないから救われる。この二、三日は静か。

飼い主はピアノも弾かれる。趣味で素人。一年に一曲仕上げると以前話していた。夏は開け放して弾く。うるさくてすみませんと一度挨拶があったので、気にはならない。一言で気分が違うものです。私もこまめにあいさつしたいと思います。

犬と言えば、かなり遠くのお宅だけど、甲高い声で啼き始めたら30分くらい止まらない犬がいる。こちらは一週間か十日に一度、一日何度も火が着いたように啼く。虐待されているのかと気になるけど、どこの家かわからない。

どうしたんでしょうね。あのワンちゃん。それとも犬がそんなに啼くのは普通の範囲なのでしょうか。

冬の夜の犬の遠吠え、寒空に響き渡る寂しそうな声は風情があって好きですけど。

何をそんなに悲しいの、あんたも大変かもしれないけど、みんな少しずつ大変な思いを抱えて生きているんだよ、としみじみとする。


隣は7階建ての賃貸マンション。一階が店舗と駐輪場。夏は駐輪場のこちら側の窓を開けるので、低い天井に反響しながら遠くの音が聞こえてくるのもなんか夏らしい。

境はもともととても高いブロック塀でしたが、二年前、裏のマンション建設の時のいろいろな不都合の工事に合わせて、とても低くしてもらいました。

それで風通しもよくなり、音も響くけれど、高い塀よりはまし。

私は田舎育ちなので、窮屈な空間が本当に窮屈なのです。


夫は夏は野球中継見るので、その時は逃げている。しかし、今年は応援の音が全然ないのでまあ大丈夫。

姑様は今の私くらいの年から次第に耳が遠くなり、テレビの音で、夏、隣のマンションから苦情が来たことも。つけたまま寝てしまい、一晩中テレビの音がしていたこともあったらしい。まじめな姑様は、お詫びに何か品物持って行ったらしい。こういうところは、不出来な老嫁も見習わないとね。

夫もテレビの音は大きめ。私は聞きたくない大きな音が嫌いで、耐えられないときにはテレビの音を勝手に絞る。夫は黙ってテレビ消してどこかへ行く。。。。老夫婦の寒々とした光景。夏には心も冷え冷え。少しは涼しくなるといいんだけど。

見たくないものは目をつぶればいいけれど、音は耳塞いでも聞こえてくる。聞くときの気分は音を出す相手との人間関係に左右されるので、私も人さまの迷惑にならないよう、ミシン掛けは昼間とか、いろいろ気を付けたいと思います。

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日航機事故で亡くなった友をしのぶ

2020-08-12 | 随想

兵庫県豊岡に咲くヤマユリ。先月。


8/12は日航ジャンボ機が墜落し、520名もの方々が犠牲になった日。事故後連日、いたましい報道が続いたのを記憶している。

その時私はどうしていたかと言えば、九州を家族で旅行中で、雲仙の宿に宿泊。夜、息子たちと夜行性の虫を探して宿に帰ると、ロビーのテレビの前に人が集まって、皆さん黙って画面を見ていた。

すぐ隣が、そびえるようなリゾートホテル、私たちの宿泊は庶民御用達の小さな宿。そこらあたりまでは憶えている。

雲仙の地獄で次男が鼻をつまみ、三男は、コアラのぬいぐるみ抱えてお父さんに抱かれている。もう2歳半だったのに。その写真もある。

いえ、私のことはどうでもよろしい。

その事故で、大学で一緒に勉強したSERA君がなくなったと、秋の初めだったか、友達から情報がまわってきた。高校の教師をしていて、夏休み、東北地方への修学旅行の下見に行った帰りだったと言う。

神戸出身、面白い人だった。三年生になると、教育学部と文学部の同じ専攻の学生は一緒の講義を受けることが多かった。あちらは文学部に日本史を学びに来て、私たちは教育学などを習いに行き、総勢20人余りはたちまちに仲良しになって、よく一緒に遊んだ。

研修旅行で、福井、富山、岐阜、長野、最後は東京と大旅行したのも今思い出した。東大文学部の史料編纂所にも行ったんだったかな。これは教官に院生、下の学年も一緒で、いろいろ楽しい体験もした。

最後のコンパの後、記憶もあいまいだけど、誰かの下宿に全員で移動、夜が明けるまで延々話し続けたのを憶えている。女子は1/3くらい、残りは男子。あの時の個性的な面々、今は各地でいい人生を送っていると思いますが、もう一人、病気になったADACHIくんと二人は早々にあちらに行ってしまって、残念です。

生きているのは当たり前のことではない。今日一日、感謝しつつ、真面目にするべきことをこなし、周りに喜んでもらえる私でいたい。今朝は殊勝にそんなこと考えた。涼しいうちに用事は片付けて、孫の来襲に備える。頑張ります。

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水は大切

2020-08-02 | 随想

元保川/広島 フリー素材集photo AC様より


18歳で広島へ来て、驚いたこともいくつかあるけれど、いちばんはやはり、川に水が流れていたこと。

それまで、被爆体験を読んでも、火に追われて川に逃げるのが何でかなあと、意味が分からなかった私。

故郷の香川県は、いまでもたぶん全国一降水量が少ない県ではないだろうか。子供のころ、そう習った。代わりに昔からため池を築き、農業用水にしてきたと。

川・・・あることはありますが、短くて流域面積も狭く、どの川も流量が少なく、中流では砂利の真ん中に小さな流れがある。私にとっては川はそんなイメージ。

今は気候が変動して、香川県も雨が降るらしいけど、昭和のころは何回も渇水に悩まされてきた。見たわけではないけれど、祖父の話では、水の少ない年は朝洗顔した水を取って置いて夕方足を洗い、それを田に持って行って撒いたとか。

昭和15年だったと思うけど(記憶あいまい)、年間降水量が県内のある観測地点で600ミリ代ということもあり、その年には田植えができずに陸稲おかぼ=畑で作る稲を植えたと、実家にはその時の写真もあった。

田に過不足なく水を入れ、キープするかが一番大切。水は水路のわずかな傾斜で流れるので、上から順番に田に水を入れる。一つが終わればせき止めて、次の田へ入れる。一枚入れるのに何時間かかかるので、夜中でも順番が来たらその作業に祖父は出かけていたのだと、大人になってやっとわかった。

水に関する取り決めは鉄の掟、どこの池の水をどう流してどこへ入れるか、昔からきちんと取り決められていた。地元では**池の掛かりという言い方をしていた。どんなに水が足りなくても、水利権のない水は回してもらえない。それはまあ、全国共通と思いますが。

悲願は徳島県を流れる吉野川を分水すること。1970年代、私がこちらへ来てからその工事は完成し、早明浦ダムに貯めた水が香川用水を通って香川県にも来ることになった。父祖以来の願望がやっとかなったことになる。

その頃私はもうこちらへ来ていたので、昨今の水事情は知らないのだけど、香川県人は今でもよその土地の人よりは水の大切さが身に染みていると思う。以前は蛇口の横によく節水シールを貼っていたし、私の実家近くの家は、洗車と庭の散水用に井戸を持つ家も多かった。


翻って広島ですが、上水道は太田川から取水。太田川は流域面積も広く、上流部は山陰に接して積雪もあり、だいいち、市内をとうとうと流れる6本の川を見ていたら、水不足なんて絶対にないと私は思っている。

広島は埋め立て地で海に近いほど井戸が掘れず、全国で何番目かに上水道が整備された町。日露戦争の直前と記憶しています。軍都として、急速に人口が増えていた時期ではないでしょうか。そして今まで、一日たりとも断水したことがないそうで、ただただ感謝あるのみ。

原爆投下の日だって、水圧下がりながらも配水し続けたそうで、水はなるほど生きる基本手段。焼け跡に戻ってきた人が、水道栓ひねったら水が出たので住めると思い、バラック建てたという話も聞きました。

夏になったので、水に関する父祖の苦労に思いをいたし、一層節水に努めたいと思います。


それにしてもコロナです。太平洋戦争末期、何の方針も立たず、誰も責任取らず、手をこまねいて破滅へと向かっていた時期って、こんな感じだったのでしょうか。

久しぶりに見たら、相変わらずあのマスクして、礼服来て、皇居で何かの儀式やっていた。一人だけ違うマスクして、寂しくないのかな。全国に配って誰もしていないなんて。たぶん。私は一度も見ていません。

検査の徹底と隔離、治療。それしか道はない。素人でもこのくらいのことはわかる。応援団の中国人、韓国人をバカにする人たち、風邪の一種だから大騒ぎしなくていいって言ってるけど、感染症対策では完全に日本の負けって素直に認めたらいかが。

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泳ぎは大切

2020-07-31 | 随想

今年は梅雨が長く、新型コロナの影響もあってか、水難事故のニュースをあまり聞かない。今年の夏、これからもいたましいニュースがありませんように。

私の実母は山の中の育ちだけど、たいそう泳ぎが得意だった。練習はため池で。土地柄ため池がとても多く、大は大規模な堤の池から、山間の小さな谷に畳二枚分くらいの池とも水たまりともつかないものまであった。

お転婆な母は親に内緒で、自分専用の池でこっそり練習していたとか。運動苦手な私によくそのたぐいの自慢話をしていた。走るのは学校で一番、郡で三番とか。

母の母、つまり母方の祖母は私の生まれる前に亡くなっているので顔は知らないけど、この人も泳ぎが得意だったらしい。

で、その話のハイライトはいつも、ため池でおぼれた母の兄二人を潜って引っ張り上げたという武勇伝。ため池は、ご存じの方もいると思うけど、内側もすり鉢状で、一度落ちるとなかなか這い上がれない。

私にとっては伯父二人、落ちたのは小学校低学年のころかなと思う。祖母が腰巻一つで池に潜り、沈んでいた息子二人を引き上げたと、母の話ではそうなっている。下の伯父はもう意識がなくて、池の傍らで祖母が泣いていたら、通りががった男の人が「この子はまだお腹が温いけん死んどらん」と、お腹を押さえたりマッサージしてくれたそうな。伯父は水を吐き出して息を吹き返したとか。

とっさに潜って息子を引き上げる。母親ならばこその行動だけど、自分が泳げなかったら怖くてできなかったはず。泳げることは命にかかわることもあるので、他のスポーツはともかく、泳ぎだけはマスターしていた方がいいですね。

私ですか?一応泳げます。最近はプール行かないけど、50代のころは二日に一度、500メートルくらい泳いでいたこともありましたね。多分まだ泳げると思う。

次男がお腹にいた妊娠7か月のころ、海で泳いだらものすごく楽に泳げてびっくりしたことも。体の体積が増えているので浮力も受けやすいんでしょうか。

祖母の武勇伝をある人にしたら、その人は泳げないそうで、私なら死なせているとしみじみと話していた。

私のことだから偉そうに、「人間の体は肺に空気一杯吸い込んだら比重が水よりわずかに小さくなる。顔を付けてて手足をゆっくり伸ばしたら誰でも浮く。それから手足を動かしたら前へ進む」とアドバイスしましたが、顔が水に濡れるのがいやだそうで。

おやまあ、じゃ顔洗わないのと聞きたかった。

とはいえ、どうしても浮かない、比重が1より大きい人もたまにはいると聞いた気がします。彼女もとても痩せていて脂肪はどこにもついてない感じ。そういう人は泳ぎにくいのかもしれません。私の推測ですが。


若い頃なら、女木島に津田ですね。津田は高校のクラスで夏休みに泳ぎに行った。楽しかった。若い先生が写真撮ってくださって、3年前の同窓会で集合写真見た。

男の子と泳ぎに行くのはたいそう気恥ずかしかった。相手もそうだったのか、もう一人男の子連れてきていた。うーーむ、みんなちょっとずつ困っていた。20歳のころ。元高校の同級生。あれは女木島だった。

もう一人の子はたまたま海水浴場で同じ中学の女の子を見かけて話しかけていた。彼女は家族と来ているとかで、私たちのグループに入らず、また行ってしまったけど、その頃の私は家族と海へ行くのはもう子供っぽいと思い始めていた。

今の私ですか?身内でもない男性に水着姿決して見せたくない。あちらも決して見たくない筈。いや、身内でも見たくないでしょ。

来月、孫やみんなでプール行くことになっている。一緒に泳ぎたいけど、服着て泳ぐわけにいかないし・・・

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広島県女性の健康寿命

2020-07-27 | 随想

近年、平均寿命だけではなく、健康寿命という言葉をよく聞くようになった。

支援、介護を必要とせず、日常生活に支障がなく生活できる年齢のことで、さっき何気なくランキング探していたら、なんと、広島県女性は全国最下位になっている。https://toyokeizai.net/articles/-/224741?page=4

健康寿命73.62歳 平均寿命87.33歳、不健康期間13.71年。

この長さが全国一。つまり広島県の女性は早くに介護、支援が必要になり、そのあと長く生きるって、絶句。ほんかしら、としたらなんで?

一説には山間地が多くてすぐ車に乗り、歩かないからというのがあったけど、それは単なる印象にも思う。

10年くらい前、三段峡へバスで行ったことがあったけど、終点に近づくにつれて、バス停で待つ年配女性は足腰弱っている人が多かった。

歩かないと言うのは結果の話で、若い時にはうんと歩いたのでは?そして農山村の女性の苛酷な肉体労働を思ったのでした。

また人口比では都市部が多いと思う。都市の女性が不健康というのは、これまたどうして?と思う。楽をしすぎるから?

広島県ではさすがにまずいとうことになったのか、いろいろ対策を考えているようです。

https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/63/kenkoujumyouyouinbunseki.html

この中にもあるように高齢になると、健康を維持するためには禁煙、減塩、運動の習慣、社会的なつながりが特に大切になるようです。

私ですか・・・平均値で言うなら健康寿命が尽きるまであと2年弱。ええっーと驚きました。まだし残したこといっぱいある、あれもこれもと数えきれないくらい。

いえ、したいことができないばかりか人の世話になって生きるのはなるだけ避けたいところ。そうなってしまえば仕方ないけど。

禁煙、タバコは全然吸いません。減塩、これもよそで食べるととても塩辛く感じるのでたぶんできていると思います。特に朝は果物、ヨーグルト、卵くらい。それにコーヒー。パンもチーズもハム類も塩が多いので普段はほとんど食べない。

運動は昔から苦手ですが、近くは歩いて行くことが多い。家の中をよく掃除する。社会的なつながりって何でしょう。友達はそう多くないけど、もう少し増やせばいいのかしら。


人に頼らず何でも自分でするのも大切かもしれませんね。あまり意固地になるのもかわいくないけど、初めから若い人を当てにしないで、できることは自分で。と、まあこんなところでしょうか。

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白髪染め、やめようかな~

2020-07-03 | 随想

たぶん50代初めには部分的に染めていたと思う。それからは、白い部分を染める繰り返しでやってきた。

一度、どんなものかと美容院でしたけど、あとは自分でしている。

今は、ひと月くらいで白が目立つようになると部分的に染めて済ませている。

美容院できちんとしてもらった方がきれいなはず。でも、人に頭や体を触られるのが苦手なのでずっとそれでやってきた。

でも元々は化学物質たくさん入っているし、体に蓄積してそのうちアレルギー反応起こすのも怖いし、そろそろやめようかなと思っている。

姑様は72歳直前でお舅様を見送る前、一年くらい自宅で介護していた。その時、美容院へ行く暇がなくて白髪にした模様。

してみると髪の毛多くて上品な銀髪、それにスーツ着てハンドバッグ持つととても似合っていた。

私も真似したいけど、まだごま塩かなあ。それに普段から身なりにかまわないので、おしゃれにはなりそうにない。

ちなみに今の服装は長そでの登山服、スリーシーズン兼用ついでに昼夜兼用、下は浴衣から縫った楽なズボン(パンツ)。究極の楽な服。

これでごま塩なら、妖怪屋敷の住人みたいに見えるかもしれん。

私の祖母はどうしていたかなあ。長くしてうしろでお団子にしていたかなあ。

どんな年寄りになりたいか、試行錯誤は続きそう。


夫は月初め、先月分の数字が出てがっくりしていた。今年の春の業績は本当に大変で、まだ全然回復していない。

イレギュラーの日曜日の仕事も多い時は百人、五月は15人。

初めは熱がある人が来たらどうしようと、戦々恐々。物資も全然ないので、顔を覆うものなど、ホームセンターで材料買って手作り。あとはダイソーのシャワーキャップとか。

あの頃は緊張感があって重苦しく、先行きの見えない不安もあったけど、私自身はあまり外出せずに家にいる日常にも慣れてきた。

県内ではもうこれ以上広がらないことを願っている。一人一人が自分の持ち場で、感染予防に気を付けていくしかないようですね。

お互い頑張りましょう。

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批判できないはず、やっと納得

2020-06-23 | 随想

私の勘違いでした。落選した前職を応援したとばかり思っていたら、対立候補の応援!!

一緒に選挙カーに乗って応援している。情勢見てどうにでも動く人なんですね。

自分の派の重鎮なのに。落選した方の候補はやるせなかったことでしょう。

真ん中の人、前職がなんか一言言ったのをずっと根に持って、掟破りの強引なテコ入れ。これ、どうなんでしょうね。私怨を政治に持ち込んでいいのかな。

大金は、他の党の票をもらうためにも動いたのではという意見があります。政治の裏は私のような素人にはわかりませんが、お金の流れ、解明してほしいものです。


知り合いで、杏里議員の顔が嫌いという人がいました。県会議員の頃です。もともとは美人で顔立ちもいいのでしょうが、いろいろなことが顔に出ますよね。最近はどんどん人相悪くなってきてた感じ。

女性議員、権力に近いほど顔が下品になるのはなぜ。

元々きれいな人も政治家やり続けていると、なんか顔にケンが出るというか。


真ん中に立つ方、何か歴史に残ることしたいと思っているんでしょうね。

プーチン大統領に山口県の(田舎の)温泉宿に来てもらって平和条約の糸口作りたかったのはこけるし、そのあともこれと言った実績残してないので、焦っているのでしょうか。

あの旅館、本当に田舎の一軒宿で、横通ったことあります。中はもちろん豪華なんでしょうが、ロシアの大統領をわざわざ泊まらせるにはちょっと、ではないでしょうか。

一にも二にも自分の選挙区だから。そこで合意ができたら「長門条約」と呼びたかったそうですが、ダメでしたねぇ。

日本史上では下関条約というのがありますが、それと並びたかったのかな。

今までの仲間内重視のあれこれ、膿を出しきるのが引退の花道。私はそう思います。最後だけでもきれいに。


コメントは認証制です。あなた様の貴重なご意見を反映しないこともありますので、何卒よろしく。

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地元国会議員の逮捕

2020-06-19 | 随想

船溜まり。2019年6月


一面トップの逮捕報道。

私は新聞、テレビニューなどで知るしかないんだけど、どうしても解せないのは、一方の元議員を押した国会議員が表立って何のコメントも出していないこと。

こんな場合出さないのが慣例?

でも一時は次期首相候補と言われていた人物、存在感を示すいい機会ではと思う。

また党の中にも表立って真相を究明する動きのないこと。自浄できない組織は内部から崩れていくのではないでしょうか。悪いことは悪いと、自ら明らかにしてこそ、再び信頼も取り戻すのでは。

政治はこの国を、この地域をどうしたいか、一人一人の安心な暮らしのためにどうすべきか考えるものだと私は思っています。

特定の個人や企業への利益誘導のために政治家がいるわけではない。そこのところが余りにないがしろにされていると思います。

広島に住んで50年余り、被爆体験はよその土地よりもよく聞くし、地方紙ではいつも被爆関係の記事があります。

しかしその語られ方はいつも政治と切り離し、地震や土砂災害と同じ自然現象のような扱いであることが、私には物足りません。

1960年前後、被爆者の運動が政治主導で分裂していた苦い経験からのことかもしれませんが、もうそろそろそれを乗り越えて、広島市民は核廃絶のための具体的な道筋を考える時期ではないでしょうか。

原発や核兵器にはっきりと反対していない、むしろ認めている政党が広島でも大きな力を持っているのが私にはまったく解せません。

原爆の被害を、日本人特有の諦め、そしてただの嘆きに終わらせていいはずがありません。

逮捕された二人、そのあたりをどう思っていたのでしょうか。一度も発信したことがない印象です。私が聞き漏らしたのかな。

さっさと国会議員辞めて正直に話し、法の裁きを受けるべき。党も内部調査をすべき。黒川常習とばく検事の定年延長で、逮捕が免れると期待妄想していたなら、あまりに常識に欠けるし、法治国家の体裁をなしてない。

徹底的な捜査を期待したいと思います。

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半夏生一部

2020-06-05 | 随想

その頃はお舅様の法事や墓参りなどがよくあったけど、お姑様が私を当てにすることは全くなく、嫁に出した娘を前日から呼んで準備するので、ものすごく戸惑っていた。そのことを縷々書いている。
おやおや、また愚痴になっていますね。
でもまあこういうことはその家、その家のやり方があり、それで通っていくのも事実。手伝いはおろか挨拶に行っても嫌がられるので(手で追い払われたり)近寄らないようにしていたけど、思い出すといまだに悔しい。そんなに嫌わなくても。ねぇ。
私には娘がいないので、里帰りした娘がどんなにかわいいか、残念ながら実感できない。
話のついでに、夫にそのことを言わざるを得なくなり、突然大泣きしたのもこのころ。この私としたことが。でも泣いたのはその一回だけ。それ以後はその話もしない。それは私のささやかなプライド。実家の親にも、泣き言は一度も言ってません。

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