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山の木を大切に

2014-10-29 | 日記

きょうの地元紙によると、広島市は、安佐南区緑井の権現山山頂付近の保安林を県の許可なく伐採していたことが分かったという。

木を切ってヤマザクラの苗木を植えたんですと。立ち枯れの木を切ったと市は言っているけど、業者に丸投げ、業者は山の北西側と南側でコナラなど162本を切り倒したとのこと。いゃあ、生きながらに切られた木の悲鳴が私には聞こえてきます

地元紙へリンク

http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=100596&comment_sub_id=0&category_id=256&index_flg=1

八月の豪雨災害で、境内に土砂が流れ込んだ毘沙門堂のちょうど上の部分ではないですか。市は因果関係はないと言ってますが、そんなこと断言できないのでは?

この私は、山の自然を壊していらんものを植えるのはよくないと常々思っております。この山、山頂付近は整備されすぎ。啄木の歌まで岩に刻まれている。

前のブログです。山が崩れた後では啄木の歌なんてめでたくないかも。

http://blog.goo.ne.jp/samubuto/e/48afd68a462401588a52853d58c340e5

啄木はここの出身でもないし、遠くから山を見て歌ったもので、権現山の山頂にわざわざ刻むこともないのではと思う。誰が考えたのかしらんが、やりすぎでしょう。

世の中には山の木は見苦しくて、替わりに桜を植えたい、しかも並木になるくらいにたくさん植えたいと考える人がいることはこの私も知ってるけど、山の木は何の役に立ってないようでも自然の一部として、景観の維持、保水など、とても大切な役割を持っていると思う。

コナラは悪くてサクラがいいなんて、どこのだれが決めたんだあ。こんなバカなことは止めてもらいたいもんです。温厚なこの私(←嘘です。自分で言う時点ですでに怪しい)、新聞記事で腹立てることなんてまずないけど、きょうはちょっとどうかと思った。

山の木を大切に

 

 

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母から電話

2014-10-29 | 日記

先日来たときに母の写真、撮った。娘一家、孫のお嫁さんとひ孫に囲まれてご機嫌な88歳です。

なるだけいい顔を撮って、2Lに引き伸ばし額に入れて送ったら、夜、お礼の電話があった。

「分かりやすいところに置いときなさい。葬式の写真を慌てて探さなくていいように、それを引き延ばして使うてもらえばいいから」と、私もたいそうおせっかいである。

葬式の写真の準備。。。他の人なら気分害するかもしれないが、娘がすることなので笑って済ませられる。

「そうやなあ、これなら使うてええぐらいええ写真や」と本人喜んでいる。よかったよかった。

年寄りの気分もお天気と同じ、晴れる日もあれば雨の日もある。

「せっかく長生きしてるんだから毎日機嫌よく過ごしなさい」と説教する娘。「毎日おいしくご飯が食べられるだけでも幸せと思わないと」である。

「そうやなあ」

全くそうだよ、その精神で生きていてもらいたい。

明後日、友達と旅行行くので軽いコートを買いに行った。全然いいのがない。仕方なく買ったけど、やっぱり気に入らない。

何で私の着たい服、売ってないんだろうかと思う。デザインシンプル、彩度は高く明度はそこそこ、薄手のいい生地で、着やすく脱ぎやすく。

母は衣装持ちです。昔は近所に洋裁する人がいっぱいいて、そのころ作ったスーツやワンピースを取っ替え、引っ換え着ているそうです。

ああ今日の買い物失敗したなあ、落ち込む私。デパートの人とあれこれ話すのもものすごくストレス。

 

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登場するのは

2014-10-28 | 読書

 懐かしすぎる方々。

 1、田村高廣(俳優)
 2、岡潔(奈良女子大名誉教授)
 3、朝比奈宗源(臨済宗円覚寺派管長)
 4、沢村貞子(俳優)
 5、森繁久彌(俳優)
 6、谷口千吉・八千草薫(映画監督・俳優)
 7、佐田の山晋松(横綱)
 8、遠藤周作(作家)
 9、林家三平(落語家)
 10、湯川秀樹(京大教授)
 11、篠田正浩・岩下志麻(映画監督・俳優)
 12、檀一雄(作家)
 13、池田大作(創価学会会長)
 14、瀬戸内晴美(作家)
 15、荒川豊蔵(陶芸作家)
 16、市川寿海(歌舞伎俳優)
 17、松本清張(作家)
 18、山田風太郎(作家)
 19、堀田真快(高野山真言宗管長)
 20、飛鳥田一雄(横浜市長)
 21、小田実(作家)
 22、中山善衛(天理教真柱)
 23、坂高麗左衛門(陶芸作家)
 24、浪越徳治郎(日本指圧学校校長)
 25、三浦綾子(作家)
 26、筒井康隆(作家)
 27、貴ノ花満(小結)
 28、庄司薫(作家)
 29、鈴木清順(映画監督)
 30、陳舜臣(作家)
 31、稲垣足穂(作家)
 32、滝田ゆう(漫画家)
 33、中村武志(作家・東京間借人協会会長)
 34、土井勝(料理研究家)
 35、近藤啓太郎(作家)
 36、畑正憲(作家)
 37、ミヤコ蝶々(タレント)
 38、横山隆一(漫画家)
 39、井上ひさし(作家)
 40、佐伯達夫(日本高等学校野球連盟会長)
 41、永井龍男(作家)
 42、中村汀女(俳人)
 43、岡本太郎(画家)
 44、草野心平(詩人)
 45、平山郁夫(画家)
 46、林家正蔵(落語家)
 47、谷川哲三(哲学者)
 48、寺山修司(詩人・天井桟敷主宰)
 49、ドナルド・キーン(コロンビア大学教授)
 50、山藤章二(イラストレーター)
 51、小林亜星(作曲家)
 52、三國連太郎(俳優)
 53、横尾忠則(画家)
 54、森敦(作家)
 55、中村紘子(ピアニスト)
 56、熊谷守一(画家)
 57、今東光(作家・中尊寺貫首)
 58、西川きよし(タレント)
 59、中村歌右衛門(歌舞伎俳優)
 60、辻嘉一(懐石料理辻留主人)
 61、市川房枝(参議院議員)
 62、悠木千帆(樹木希林)(俳優)
 63、田村隆一(詩人)
 64、麿赤児(舞踏家・大駱駝艦主宰)
 65、高橋義孝(九大名誉教授)
 66、金子信雄(俳優)
 67、小池朝雄(俳優)
 68、大宮敏充(喜劇俳優)
 69、小西得郎(野球解説者)
 70、丹羽文雄(作家)
 71、柳原敏雄(日本料理研究家・近茶流宗家)
 72、三遊亭金馬(落語家)
 73、川口浩・野添ひとみ(俳優)
 74、斎藤茂太(精神科医)
 75、小野正吉(ホテルオークラ料理部長)
 76、梅原猛(京都芸大学長)
 77、丹下健三(建築家)
 78、鰐淵晴子(俳優)
 79、大島渚(映画監督)
 80、松本幸四郎(歌舞伎俳優)
 81、田辺茂一(紀伊国屋書店社長)
 82、半村良(作家)
 83、アントニオ猪木・倍賞美津子(プロレスラー・俳優)
 84、八代英太(参議院議員)
 85、唐十郎(状況劇場主宰)
 86、江田五月(参議院議員)
 87、山田太一(シナリオライター)
 88、色川武大(作家)
 89、フランソワーズ・モレシャン(ライフ・コーディネーター)
 90、中野重治(作家)
 91、杉浦明平(作家)
 92、荒川寒村(社会運動家)
 93、植村直己(冒険家)
 94、美川憲一(歌手)
 95、志村喬(俳優)
 96、物集高量(著述業)
 97、小沢栄太郎(俳優)
 98、中野浩一(競輪選手)
 99、新藤兼人・乙羽信子(映画監督・俳優)
 100、千秋実(俳優)

亡くなられた方も多い。西川きよし師匠は今朝もテレビで拝見しましたが。。。。

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家は大切

2014-10-28 | 日記

お金が無限にあり、自分の好きな家を好きな場所に建てられるならともかく、殆どの人は限りあるお金で工夫して、なんとか妥協点を見出し、ある程度は我慢して、いいところを生かして住んでいると思う。

また賃貸でも、場所、陽当たり、風通し、など考えて選ぶのが普通。

どんな場所に誰と住むか、これをなおざりにしては人生そのものが成り立ちませぬ。

家・・・モダンで便利そうな家は子供のころからのあこがれ。

農村地帯に突如現れた市の分譲住宅。約30戸。それが二つ出来たのは昭和30年頃。地元住民は「ジュータク」と呼んでいた。住宅地にはコの字型に道路があり、真中の並びは南北にみちがあるという立地の良さ。

みなサラリーマン、でも裕福な人が多かった。お父さんは大学の先生とか、一部上場企業の支店長とか。当然奥さんはみな専業主婦、家事のほかには手芸したりしてたかも。今思ったら土地が30坪、家は20坪くらいの平屋。伝統から切れた新しい戦後の暮らし。

小学校の帰り道にジュータクがあり、友達のO野さんが住んでいた。彼女の家で遊んでから、今度は彼女が我が家へ来る。

我が家の敷地は広い。家の前の菜園と花畑を合わせたら、500坪くらいはあったかも。

いえいえ、お天気のいい日には牛を歩かせるミニ牧場みたいなスペースもあったので、もっと広い。これは宅地ではなかったかもしれないけど、建物とは一続き。そして私有地という観念も今ほどない。我が家の敷地は近道として利用する人もいて、郵便配達の人も平気で横切っていた。

まあ、こんなことは昭和30年代の地方では普通だったと思うけど。

どんな田舎やねん、と突っ込まれそうですが、一応県庁のある市、叔母の一人は娘のころ、県庁に歩いて通勤していたそうだから、県庁から徒歩圏ということでお願いします。

でも私はO野さんの家がとってもうらやましかった。コンパクトで、明るくて、伝統的建築の我が家がとってもダサく見えていた。

ふだんは忘れてるんですよね。こんなこと。我が家にあったのはその他に広い広い農地。小学校の四年くらいからは半人前くらいには手伝いましたね。だから今は野菜も花も作らない。せっかく農家でないところに嫁に来たんだから、求めて土なんていじらない。もう一生分の土いじり、子供のころに済ませたもん。

人は自分の生まれる家を選べない。いいとか悪いとかは考えないけれど、どんな家に住むかで、誰と住むかで大きく運命が変わってくることは確かにあると思う。

でやっと初めの話題に戻るわけですが、最近心に引っかかったのは国分寺カレー殺人未遂事件。和歌山カレー事件ではありません。

私は誰をも断罪する立場にはないけれど、暗澹としてしまった。

家は大切、もっと角突き合さずに済む工夫はなかったのかしらと、手持ちの家関係の本をつい出してみた。

藤森輝信氏のは新聞に連載していたエッセィ。諏訪地方の子供時代がとても面白いので家とは直接関係ありませんが。

小住宅はカラー文庫。1960年代の都市サラリーマンの家。そうそう、こんな家に憧れたのです。

実父は1961年に住宅会社に勤め始め、我が家にもようやく近代化の波が押し寄せてきたのでした。土地の一部に貸家を何軒か建て、その家賃でできょうだい三人は遠くの学校へ行かせてもらったのでした。

今はがらんどうになった我が家。二人では広すぎるし、この先誰が住むのかもわからないけれど、家族五人で暮らしたのは僅か12年間、その家をメンテナンスしながらいつかこの家を離れるまでは大事に住んでいこうと思う。

息子でございます。この日は素直に写真撮らせてくれた。

やれやれ。

あらよっと。

いつもは孫たちが目立ってしまうけど、この日は一人だけ。ご飯食べてないので残り物の炊き込みご飯にシチュー、冷奴などを食べさせる。肉は要らないという小食なやつ。いろいろ話して20時過ぎ解散。


 

ついでに出てきたのがこの本。アサヒグラフ連載のグラビアページ。

食事の場面にその人の生活が全部顕れている。たいそう面白かった。今見るといっそう面白い。

例えばこれです。荒畑寒村に杉浦明平。当時は明治生まれの人がまだまだご存命でした。いゃあ、寒村は私のお祖父ちゃんに似ている。着ているものも。

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秋の比治山

2014-10-26 | 日記

比治山と初めて聞いたのは受験の時。受験の付き添いで(にかこつけて旅行したかったので)広島に来た母が、呉の、自分の叔母夫婦を呼び出し、一緒に比治山に行ったと聞かされた。

こちらの学校時代にも何度か行ったが、平和大通りは川で終わり、京橋川には自転車と人が渡れるくらいの木造の橋が架かっていた。

比治山も総じて地味で、ご便殿あとはただの広場、その上の美術館付近も広場、陸軍関係の慰霊碑、陸軍関係の墓地などが点在する丘だった。

そうそう今でもある放射線影響研究所は初めはABCCと呼ばれ、原爆の医学的影響を長期間にわたって研究する施設。地震に備えて建物は、屋根と壁が一体になった半円形は建築当時から。アメリカ人の研究者が今もいるはず。

ご便殿というのは、日清戦争のときに明治天皇が滞在した建物を広島城内から移築したものだとかで子供たちもお参りしてたそうだけど、1945年8月6日の爆風で倒壊したんじゃなかったかしら。

子供三人、比治山麓の幼稚園でお世話になったので、ご便殿あとは遠足で馴染の場所。

この20年余りできれいに整備されたけど、その前は何となく寂れた感じの場所だった。

と、私と比治山の関わりはそんな感じかな。同居人と付き合ってた頃、歩いて比治山まで。細い橋を渡って、平和大通りまで。底のの薄いかかとの高い靴でよくも歩いたこと。そこはそれ、若さということで。体重だって今よりだいぶ軽いので足裏に掛かる重さも違う。

 などとつまらないことはさておき・・・

ずっとタヌキだと思っていたけど、リスかも。いや写真見たらやっぱりタヌキ。この手すりはずっと昔からある。

なぜか次男を思い出す。きっと昔、家族でここへ来て次男が何か言うかするかしたのだと思う。今はおじさんだけど、小さくて可愛かった。当たり前か。今夜顔見せることになってます。一月振りくらいかな。いくつになっても、おじさんでも息子は息子、心配するし、余計なことも言いそうになるし。。。。

車道はぐるりと回っておりますが、柵の付け根の隙間から広場へ入ると近道ができます。

比治山で好きな場所。

行くところのネタが切れたら五人で来てたように思う。今はもう五人で出かけることはない。当たり前なので、寂しくはないし、それぞれの生活をしていることを喜ぶこととしよう。

こんなんがあちこちに。誰も手入れしないので草が生えています。

こちらは現代美術館開館に合わせて置かれたオブジェ。ブロンズ製。

名残のヤブミョウガ

シロダモ

サザンカがもう咲いている。

山の反対側は原爆の被害がなかったので、うっそうとした森になっている。カシ、クロキ、クスノキ、カクレミノなど。

森閑とした道を歩くと、街中にいるのを忘れそう。

季節は、足早に秋から晩秋、冬へと急いでいるのでありました。

 

 

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「戦後日本住宅伝説」を鑑賞する

2014-10-26 | 日記

広島市現代美術館で12.7まで

家から比治山までチャリンコで。南麓に自転車停めてあとは山を登る。美術館まで10分くらいかな。

横から周り込みます。見えてきました。

完成は25年くらい前だったかな。その前は木がまばらに植わった広場だった。

展示は1953年丹下健三の住居から、1976年安藤忠雄の住吉の長屋まで16点。といっても現物は不可能なので、写真と設計図、模型などで。

各作品は一点ずつ、大型のタペストリーで展示しています。建物の雰囲気がよりリアルに実感できます。

右は美術館テラス。

清家清「私の家」 

仕切りのない大空間を、簡単な壁が緩やかに視線を遮る。ドアはない。

家の内外の床を同じ鉄平石で仕上げる。畳の床はキャスター付きの可動式で、庭にも持ち出せる。気持ちよさそう。

初め両親の住まいにする予定が「住みにくい」と断られ、建築家本人が住むようになったとか。

篠原一夫 「白の家」 昭和モダンの趣。実父が家業の傍ら、建築会社に勤めていたので、当時はこんな感じのパンフなどが家によくあった。

宮脇檀 「松川ボックス」吹き抜けの居間と二階の居室。開放的。

菊竹清訓 「スカイハウス」 部屋の周りにテラスを巡らす。

磯崎新 「新宿スカイハウス」

一階の広い居間。階段を上がって二階半分が居室。残りは広い吹き抜け。

同級生の家によく似ている。遊びに行ったのは1961年頃。この家の発表が1957年だから、こんな建て方がその後流行したのかもしれない。

家の中で視線が抜ける。南側の広い開口部から光が入り、20畳くらいの板張りの部屋。片隅に小さな台所。横に四畳半くらいの和室。彼女はトントンと階段を上がり、自分の部屋から必要なものを持ってまた降りてきた。

それが全部目で追える。

当時、こてこての伝統的な日本家屋に大家族で住んでいた中学生の私は、一人っ子の彼女の軽やかな生活が珍しかった。

あの家、今でもあるんだろうか。

坂本一成 「水無瀬の家」 コンセプトのないのがコンセプトという趣きの家。でも当時は出窓の連続というのも新しかったと思う。

伊藤豊雄 「中野本町の家」

建築家の姉と娘二人のための家。中庭を取り囲む半円形の家には、時刻によって光と影が刻々と形を変え、自然の感じられる心地よい空間になっている。

人に住んでほしくないということで壊され、現存しないとか。それも一つの考えだけど惜しいことをした。しかしこの建物の考え方は他の建築家にも影響を与えたと思われます。

石山修武 「幻庵」

空中に浮かぶカプセルは別荘として建てられた。屋根と壁が一体化して緩やかな曲線で表現されている。

中に居ると、繭の中のような安心感があったのかも。

黒川紀章 「中銀カプセルタワービル」

1972年建設当時、何かの番組で見た記憶がある。カプセルを積み重ねた近未来的ビル。とっても斬新だったと思う。

三畳くらいの空間に仕事の設備一式と、反対側はユニットバス。今のカプセルホテルの嚆矢?

オープンリールのテープレコーダー、ダイヤル式の電話機などが42年前という時代を感じさせる。

安藤忠雄 「住吉の長屋」

有名な建物。建てられた場所は下町の間口の狭い家がぎっしり並ぶ一帯。視線を遮り光と風を入れる。斬新な建物。

そして庭を挟んでお互いの部屋が見えるのがとても解放感がある。

高松の商店街にstepという外階段のビルがあったけど、今はもうないらしい。残念。でもgreen greenなどはその延長上の考えかも。


 

1953年から1976年までの20年余りは、日本が戦後復興を果たし、経済が高度成長した時代。

人が都市に集まり、空間的制約の中で、伝統を生かしつつ、より良い暮らしのための建築が求められた時代。どの建築家も、今という時代をどう解釈し、人が生活するためには何が必要かをいろいろと考えた、その足跡が分かってたいそう刺激的、かつ面白かった。

東京オリンピックの巨大な公共建築にも個人の家にも貫かれている時代の精神があるとしたなら、自由とか軽さ、発展への信仰、心地よさの追求かなと思った。

今は古い街並みがちょっとしたブームですが(わたしだけかもしれんが)、時代が自信を失い、とりあえず近代より前の揺るぎない時代へ回帰する風潮かなとも思う。

どの建築家も光、風、視線、家の中での動きやすさなどをとてもよく考えていると思う。さすが建築家と私が褒めるのも変な話ですが。

好きな家は清家清に磯崎新、開放的なのがいいと思う。土地が狭い場合は断然安藤忠雄。

吉田桂二の本で読んだけど、一つ一つの部屋を小さく区切ったのではどんな大豪邸でも広く感じられない。人は複数の部屋に同時にいるわけではないのだからというくだりがあった。

むしろ狭い家こそ小さく区切るのをやめて、広い空間で住みたいものと思った。

私はもう家を建てることもないだろうけど、23年前に増改築したとき、南北方向に窓を多く取り、居間も8畳から11畳+畳4.5畳へと広くした。今思ったらもっと広くしたらよかった。広い部屋が一つあると大勢で集まって安心。そして楽しい。

素晴らしい家をたくさん見て、元気が出た。また明日から頑張ろう。建築は絵画と違って耐用年数があるのが残念。

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ただいま漏水中

2014-10-24 | 日記

京都府美山町で 2006年秋


 

水道料金の引き落とし額、今年になって徐々に増え、ついには昨年同期の2倍になった。おかしいとやっと気が付き、いつもお願いしている近所の工務店へ連絡。

先日、会社の人が下見に来て、きょうは水道業者が来たそうな。私は不在。一応家をざっと掃除して出かけたけど、まさか私のベッドの足元の畳を剥ぐって床下まで見たとは。

家を建てたのは次男の生まれた翌年、1978年、今年で36年になる。家の建築確認書についていた簡単な設計図と水道の配管図、金庫をひっくり返して引っ張り出し、業者さんに見てもらった。

こんなことで必要な日が来るとは。。。。なんでも地面を何カ所か掘り起こして管をふさぎ、メーター見つつ漏水個所を探すんだとか。

最悪ガレージのコンクリートも剥がすんだとか。

いゃあ、家も歳とるとメンテナンスが大変である。昔の水道管、鉄だから錆びるし、だいたい配管図もパソコンの印字でもコピーでもなく、青焼きだった。湿式のコピーというやつです。メーカーだとMitaとかありましたよね。

今の人なら、青焼き?はあ~と言う反応だと思う。

あと今はなくなったものをあれこれ思い出したいけど、なくなったものはすぐには思い出せない。いずれ少しずつ思い出します。

 
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珍しい瓜

2014-10-24 | 日記

本日ある所で見た小さな瓜、観賞用。名前も教えてもらったけど、検索怖いので書きません。

ちょっとイノシシの子みたいな柄が。

ん?イノシシの子供??・・・ちゃんとした名前があるだろうがと突っ込まれそうだけど、それも検索除けで書かないって、私、何に怯えているんだろ。

備前にあしらっていい感じ。今はこの敷物みたいな柄のコースターを織っています。

もう一つのブログ、毎日アクセスランキングが出る。

http://blog.goo.ne.jp/samubuto/e/5f31bd845b049407a2578b9d588ade69

そうそう、四年前でした。

その後この店は見事ミシュランの三つ星に輝き、もう行くこともなくなりました。早く嵐が納まってほしいと思いつつ、もう行かないかも。予約が取りにくいらしい。

あの頃、どこへ行くのも着物着て行ってた。今は少し飽きた。またいつか着たいものです。

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ネックレスを作った

2014-10-22 | 日記

いちばん大きいのは先日焼き上がったもの。転写紙で絵付けした陶磁器です。

ゴールドのビーズは絵付けの先生にいただいたもの、残りは手持ちいろいろ。

夏ごろ、孫娘と私はビーズ手芸に嵌っていて、二人でいろいろ作った残りです。

金具を付けるのは面倒なのでテグスを結び、端は両方ともまたビーズに通して始末。

いちばん細いテグス二本取り、細いワイヤーを折り曲げて、紐通しの要領でビーズを通します。

ビーズの組み合わせをいろいろ考えるのが楽しい。

こちらは先日の手芸展で材料を買ったもの。その昔、大枚はたいて福屋で買った珊瑚、色があせてしまい、赤いシンプルなネツクレス探していたけど、やっと巡り会えた。

ワークショップを出しておられる絵付けの先生に見せたら、天然石の何とか(名前失念)と教えてもらった。絵付けした陶磁器のビーズと合わせる予定だったけど、二本分をテグスでくっつけただけ。こちらも金具省略。

材料費は千円。デパートで珊瑚買うよりずっと安くついた。嬉しい。

夏の、紺に水玉のワンピースとか、冬のセーターなんかにもいいかも。落ち着いた色の赤、昔から結構好きかも。

金、プラチナならいいんだけど、最近金属アレルギー気味。ネックレスも肌に優しいガラスビーズや天然石で。

いろいろ並べてみました。左二つはこの夏作ったもの。花のブローチは実母が五月に作って持ってきた。孫娘が貰ったけど、忘れて帰ったから預かっている。

雨の日の手芸、なんか心が落ち着く。いろいろ気がかりはあるけれど、気にして仕方ないことは気にしないことにした。


未明、メール見たら近所の友達からのバスツアーのお誘い。一緒に行くことにした。

バスツアーなんてずいぶん行ってない。一人で行くと人の雑談聞くばかりで、まあそれはそれでいいんだけど。

人に誘われて、お任せのツアーに行く。気が楽です。

今度は大宰府の故宮博物館か、京都の鳥獣戯画行きたいかも。誰か誘って~と他力本願。

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立てると危ない・・・

2014-10-22 | 日記

携帯画像整理していて、そうそう思い出した。これです。

立てるって、何を立てかけるのとお思いでしょうが、これは立つという意味の方言です。

方言は方言と自覚している場合と、共通語とばかり思っている場合がありますね。

我が同窓生、当地で若い頃教員していて、

「宿題忘れた人、立てりなさい」と生徒に言うも誰一人立たなかったとか。T田塾数学科卒の才媛で、東京の水に洗われた人でさえこのありさま。で、なんか嫌になったんだとか。その後日本語科に行き直し、外国人相手の日本語教師になりました

いえいえ、単語はどうにでもなる。イントネーションはよほど努力しないと直りません。直して標準語になるならまだしも、広島弁はなかなか言えません。私の言葉も他人様が聴いたらめちゃくちゃだと思います。

でもこの写真、ほのぼのとしてなんかよかった。島旅の最後のしめくくりになりました。

<script type="text/javascript"></script>
 
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雨が降りそうなので・・・

2014-10-21 | 日記

午前中、用事で外出、ついでにデパートへ寄り、ジャケットの下に着る、襟なしと衿有のシャツ二枚買う。迷わず一気に大人買いで。雨が降る前に帰宅したかったので即断即決。

服を買うためにだけ外出するなんて、もう何年もしていない気がする。迷って楽しかったのは40代までかな。今は服を買うことさえめんどくさい。いかんですねぇ、年寄り道、まっしぐら。

服もあんまり持ってない。今日のジャケツトは20世紀末に、ズボンは8年前に買ったもの。あちこちウロウロするのをやめればいい服も買えるんだろうけど、まあそれはいつでも出来るので。

靴は、リーボックの全天候型スニーカーの底がすり減ったので、先日同じものを買ったばかり。これだけ新しい。エッヘン。

実は先日の離れ島の旅で、靴底のエアクッションの部分に砂が入り、歩くたびにザラッザラッとうるさかった。オーナーYちゃんに「うるさいでしょ」と謝ったら「いいよ、気にならないから」と言われた。そんな何でもないことにしみじみするのも島の力かな。

そのあとアンデルセンの本店に寄り、食事パンいろいろ買って一部お姑様に届けた。あまり遠くまで買い物に行けないので、おいしいパンもたまには食べていただきたいもの。

この一月、絵ばかり描いてさすがに疲れた。でも絵具の溶き方と温度、湿度の関係とか経験的に分かったのでよしとしよう。花も果物も描き飽きたけど、いえいえ、まだまだそんなこと言ってはいけません。

少し休んだらまた頑張らずに描いていきましょう。

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秋の花と野菜を描く

2014-10-20 | 日記

二週間前の画題、本日完成。オクラは実りすぎて食べられそうにないですけど、形が面白くて。

あとはウバユリの実、ホトトギス、ガマなど。

ヨーロッパ二枚より、花がいいことになりました。もうお、もう家で根詰めて描かないことにしました。

楽に行こう。夜、物産展で買ってきた鹿児島の灰汁巻あくまきき食べる。粽の一種だけど、もち米を灰の汁に付けてから蒸すので独特の風味が。

鹿児島の血が混じっている同居人、これが大好物。私は普通。なんでも島津軍が朝鮮出兵の兵糧としたそうだから、鹿児島の人にはなじみ深い食べ物。

各地、伝統に根差したいろいろな食べ物がありますね。

 

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「離陸」 絲山秋子

2014-10-20 | 読書

面白かった。400ページ以上の長編だけど、すぐ読めた。

国交省の若手官僚の佐藤弘は、現場を志願して今は群馬の山奥のダム管理の現場にいる。ある日、黒人男のフランス人、イルベールが訪ねてくる。佐藤の別れた恋人、乃緒を探しているのだと。

彼女は女優で、その後フランスに渡り、子供ができたが彼に預けたまま失踪したと言う。

関わりたくない僕だが、パリのユネスコ本部に出向になり、イルベールと乃緒の情報交換をするうち、次第に彼女を中心とした謎の多い、不思議な事柄のなぞ解きにと引き込まれて行く。

彼女はイスラエルの映画に端役で出ていたことがあるし、第二次大戦中のヨーロッパで、ユダヤ人をアメリカに逃がす仕事の手助けもしていたらしいことが、イルベールが古物商から手に入れた古い暗号文からわかってくる。

同一人物?あり得ないことだけど、あり得ることとして読ませてしまうのが小説の力技。

人が生まれ変わることは、昔はけっこう信じられていたと思う。全く同一人物が違う時代に生まれ変われるわけがないと、今の科学だとそうだろう。死とは肉体が滅びること。魂も肉体の一部なら、魂だけが残るわけもないし、同一人物が違う時代にいるはずもない。

そう決めてしまえば原文を暗号化した日本人の老僧侶の創作かとも思うが、詮索しても詮無いこと。一つの謎の周りの人たちの人間関係が、この小説の一方の読ませどころだと思う。みな自立していて、そしてそれだからこそ他者に優しい。その風通しの良さに私自身心が洗われ、救われる気がする。

佐藤はフランス女性を日本に連れ帰り結婚する。しかし結婚は幸せなことばかりではなかった。乃緒の子は大きくなり、イルベールは癌にかかる。そして乃緒の消息は・・・

読後、他者を思いやり、自分のすべきことをきちんとやっていく。人生とは結局それに尽きるんじゃないかと愚考した。

 

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カッスルクームの旅

2014-10-18 | 日記

http://powerlife.seesaa.net/article/103819268.html

http://blog.goo.ne.jp/hiro_in_london/e/3c3f83577a9d16c58ef13441dbd5feaf

旅行記ふたつ、リンクつけさせていただきました。

二番目が、私の絵に似た場所の写真があります。なるほど、あの建物はこうなっていたのだとよく分かります。

どちらも素敵な旅行記、また行きたくなりました。私が行ったのは2008年の6月、福岡空港からソウル経由の大韓航空でしたが、乗り継ぎがよくて同じ日の19時くらいには、ヒースロー空港至近のホテルについていました。

ドイツもイギリスも冬が長くて寒いので風景も簡素、よけいな草木もなく、シンプルでした。

某電鉄系のツアー会社でしたが、お行儀のいい人ばかりで皆さんに親切にしていただきました。ツアーメンバーで旅の楽しさも大違い、今度行くことがあれば私も人様の迷惑にならないよう重々気を付けようと思います。

きょうは久しぶりにチェストの上の書類入れ、整理。いろんなものが時系列で重なっておる。夏、医学雑誌でマークしたのは、日本人女性の場合、肥満で病気になるリスクよりも痩せすぎのリスクが高いそうで。

我が意を得たりと下線を引いた。こんどその部分アップします。ふくよかな私の仲間の皆さん、一緒に痩せ自慢の人のからかいに敗けないよう頑張りましょう。

昔から人の絵に文句付けるばかりして、自分はほとんど描かない元美術部長。

人物の服の影が薄すぎるですと。もう、面倒なのでこれにて終了。

どこにいるのかと探しまくったら、自分の遊び部屋にこもって遊んでおった。この部屋に私が来るのは三か月ぶりくらいかな。相互不可侵条約締結中。

もういいわ。ドイツと以前のススキの絵、三つの中から先生に選んでもらう。

明日はいいお天気、掃除なんて野暮なことせずに早起きしてどこかへ出かけられたらいいなあ。

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陶磁器の絵付け

2014-10-18 | 日記

始めたのは2002年11月頃、先生を追いかけてあちこちの会場を転々とし、2年くらい前、先生がアトリエを構えられたので、今はそちらへ通っている。

始めた頃は、転写紙を使うのがちょっとしたブームだったけど、それも落ち着き、今は習うところも少なくなった印象。

でも私は続いてきた。先生の生徒の中では私がいちばんの古株だそうで、こうなったからには体が動かなくなるまで頑張ろうと思う。

初めのころ、絵具も使っていたけれど、貸会場の時間の制約のある所では難しく、汚しても行けないので沙汰やみになっていたけれど、また書いていいよということになり、古い本を出してみました。

和食器が日本人の感性に合う。ラフに描いても味わいになるのが素晴らしい。

洋食器の絵付けは幾何学的な正確さ、表現の緻密さが要求される。一筆を重ねてバラの花を表現する。ものすごく習練がいる。本格的に教えようとすると、教える方も大変。

でもせっかくその場があるのだから、また絵付けにも頑張ろう。

なんか最近、ずっと絵筆握っている感じ。水彩画は家ではするまいと思っていたのに。せめて陶磁器の絵付けだけは先生のアトリエ限定で。そうしないと家事は後回しになるので。

美しいもの、を見て、表現できて、作れるなんてなんて幸せなのかと思う。健康に気を付けて、なるだけ長く続けたい。

一度ブックオフへ売った本、探して再びわが手元に。

どちらも絶版。左、アマゾンで5,000円以上。図書館で借りてくる。右、アマゾンで34円+荷具送料。それぞれ楽しい本です。

しばらくは絵付けに頑張ります。下手ですが、またこちらで見てくださいね。

 

 

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