この新書は、同じく岩波新書、中村光夫著の「日本の近代文学」、「日本の現代文学」の続編を意図して書かれたもの。著者は鋭い切り口で、話題になった小説を快刀乱麻、評論してきた文芸評論家。
この本が取り上げるのは「日本の現代文学」が書かれた以後、この50年間を取り上げている。
50年・・・気が付けばもうそんなに経っていたのかと驚くばかり。私がよく小説を読んだのは1990年代まで。次第に同時代の小説が面白くなくなり、子供の手も離れて外に目が向きだしたころと重なる。
その時々で話題になるのは読んできたつもりだったけど、この本で通覧された作品の数々を知ると、あれはそういう意味があったのかと、パズルのピースを埋めていくような快感があった。
本書は1960年代から2010年代まで、10年ごとに章立てして大きな流れが分かるようになっている。
一言でいえば、文学が「知識人の悩み」から「時代の不安を映すもの」へ、一元的な価値から多様な可能性へと、時代の感覚が広がって行ったその流れをたどっている。
取り上げられた作品は、新書の制約はあるものの、数も多く、ジャンルも多岐にわたり、興味深かった。
特に2000年以降は戦争と格差社会、多発する災害など、不安な要素が多く、作家がそれを丹念に掬い取って作品にしてきたことが分かった。
身近な例でいえば、介護小説が増えたこと。有吉佐和子の「恍惚の人」は自宅介護。今は介護の担い手も場所も多様になったけれど、介護に人間の本音、本当の姿が顕れるのに変わりはない。
私は介護からようやく解放されて、今やっと落ち着いてその種の小説を読む気になった。
私の経験したことは、どんな意味があったのか知りたい。世の中には介護をせずに済む人もいて、私がその只中いる時は隔たりを感じていたが、今はせっかく体験したのだからいいように生かしたいと思えるようになった。
人さまの介護生活はどうだったのか、ノンフィクションではなく、心の奥深くに下りていく作品が読みたい。と、思って本書の中の一つ、注文しましたけど。
近所の80歳くらいの人、先日話していたら「大人用のオシメなんてあるんですか?」と怪訝な顔。びっくりした。長年同居した姑様は、朝起きたら亡くなっていた。同居した最後のご褒美のように私は思った。
世の中、ちゃんと辻褄が合うのだなあと感心した。
と言うことで、この本で最近の文学の流れが分かったので、時々立ち返って、読みたい本を探そう。
地元作家の「工場」、これもカフカのような不安、不条理を感じさせる作風です。これは読んだかな。「0の焦点」が三百万部売れたのは、不安な時代が、愛と感動を求めているから、だそうです。なるほど。
↑の「大人のオシメ」の人とはほとんど話すことがなかったのですが、最近、あることがきっかけで少しずつ話すようになりました。
話さなくなったきっかけは飼い犬のことでトラブルになったから。道を歩いていると、敷地から飛び出し、歯を剥いて吠えながら追いかけてくるから。犬を叱るでもなく、こちらに謝るでもなく、無言で犬を抱えて帰るので、一度「犬を吠えさせるのをやめさせてもらえませんか」と頼んだら、「うちの犬は人をかむような子ではない」と言われてしまう。
その、吠えながら追いかけられるのが嫌なんですけど。。。。
自分が何か無理言ったかなと落ち込んだけど、相手は可愛い飼い犬に文句つけられて腹立てた様子。典型的なご近所トラブルですね。
以後、ペット好きな人とはあまり深く関わらないようにしてきました。
おや、本の感想のついでに何話しているのやら。
ついでにしばらく前から話題の「地域猫」について。
気が付くと我が家の付近では野良猫が激減しています。以前は三匹くらい我が家に来る常連さんがいて、毎日のように糞することもありましたが、今ではたまに野良猫を見かけるだけ。糞はだいぶ長い間見ていない。
我が地区では「地域猫」活動はないようですが、なぜかこの激減ぶり。
これは単純に、野良猫に餌をやる人が減ったからではないかと思います。たまたまで、また増えるのかも分かりませんが、まずはよかった。
「地域猫」は、飼えない、飼わないけど、猫がかわいくて好きな人と、野良猫はいなくても全然困らない人との妥協の着地点かなと思います。
直接、エサやるなと言っても、私の犬のことのように、近所関係がこじれるだけ。注意して逆切れされ、殺された人さえいます。おーーー怖~
自治体が中に入っての活動の推奨のようですね。
地域猫活動ではボランティアと住民と自治体の連携が大切と、いろいろなサイトでうたってあります。
活動するのは住民の同意が必要と、踏み込んだ決まりを作っている自治体もあります。理解ではなくて同意。これは限りなくハードルが高い。猫好きの人がいて、猫嫌いの人もいる。話をまとめるのは大変です。多分まとまらない。パンドラの箱を開けるようなもの。
私の感覚から言えば、「地域猫」する人は、地域の糞の始末もきちんとしてほしい。地域猫かただの野良猫か、糞から見分けるのは不可能。糞は全部始末してほしい。
個人の庭に糞が見つかったら、地域猫ボランティアの人に連絡できて、すぐに来て始末。車に爪の跡つけられたらそれもボランティアの人で弁償。
人に迷惑かける生き物を地域で生かそうとするのだから、そのくらいの覚悟が必要では。かわいいのでエサやりたい、死ぬのがかわいそうという感覚だけでは、地域の共感は得られないのでは。
もう40年以上、野良猫の糞を始末し続けて、仕方ないとあきらめていましたが、「地域猫」活動には疑問があります。一代限りの猫でも糞はします。自分たちだけがいいことしていると思わないように。黙って排せつ物始末している私も偉いって、誰もほめてくれないので、自分で褒めておこう。
本音言うと「地域猫」もやめていただきたい。
飼い猫には去勢と避妊、外へ放さない、捨て猫しない、野良猫にエサはやらない、戸締り厳重に、ゴミの管理、などで、猫は減ると思います。
その上で、猫が好きな人は自分で一匹でも飼うなり、お金出し合って共同で飼って、関係ない人間に迷惑かけないでいただきたいものです。
以上が、今のところの私の考え。昔は犬も猫も嫌いではなかったけど、今はつくづく嫌い。