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小説も絵も同じだと気がついた

2019-11-30 | 随想

今朝、NHKで城崎温泉などを紀行する番組を見た。

城崎と言えば「城崎にて」、志賀直哉の達意の文章の一節を聞くうち、何でもない一文に見えて、プロとアマの差は歴然、何が違うのだろかと考えた。

天啓のように・・・と言うのは大げさだけど、結局は書きすぎないことというのに、思いが至った。気がついたと言うことです。説明せずに描写せよとは、小説でよく言われることですが、それも簡単にしかし要点は外さずに。隙間は読者の想像力に任せる。

うまい小説を読んで心地いいのは、読む方が自分の感性、知識などで小説の世界を補填しながら、新しい世界へと踏み入れることができることではないかと。

これを絵に当てはめると、隅から隅まで丁寧に描いた絵は、見る者が自分から補填することがない。押しつけがましいということ。

広島を代表する洋画家の先生のアトリエで、毎月、毎月、注意されるのはこのことではないかしらと、ようやく気が付いた。

下手でもいい、いえ、絵の上手下手など、デッサンと色が狂ってないだけなら写真や、他の芸術、技術に任せておればいい。今からデッサン狂いなく描けるよう修練する必要もなく、自分が対象のどこに美しさを感じたかを簡潔に表し、あとは見る人の感性に任せばいいとやっと気が付いた。

作家が作品の読み方を指定できないように。よおし、何か元気出て来たぞう~

来月も頑張って描こう。描いた後、奥様の淹れて下さるコーヒーがどこの喫茶店よりもおいしい。深みがあてほのかに甘くて。あのコーヒーも一月に一度の楽しみ。

志賀直哉=近代文学の人、村上春樹=若い人の読む作家、と私にとっては過去の人だったけど、なかなかどうして、世間でいいと言われているものにはやはり不変の価値がある。そのことに気が付いて、それが絵の先生にの言われることとようやく結びついたのでした。

気が付くのに遅いということはありませんよね。年とっても、体動かなくなっても手と目が動けば絵は描ける。なんか希望が湧いてきた。


 

2012年11月、ドイツローテンブルクで。後ろの家はアベントカレンダーになっているのかも。

早く来い来い、クリスマス。

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義妹夫婦が来た

2019-11-29 | 日記

2012年11月、ドイツ、ネルトリンゲン。


昨日は、姑様の見舞いに、同じ県内に住む義妹夫婦がやってきた。昼休み、四人で施設へ行き、義妹夫婦はお弁当持参で一緒に食べ、私たち夫婦はそれぞれ用事があるので、あとはお任せして帰ってきた。

義妹夫婦はそのあと、市内観光して夕方、我が家に帰ってきて、一緒に食事した。

長い年月の間、初めてのケース。義妹の連れ合いとゆっくり話したのも初めてのケース。今まではずっと姑様が自分のところでもてなし、私の手を煩わせることがなかったので。

ゆっくり話すと、今さらながらにとてもいい人だと分かった。親せきと話すこの感じ、長い間忘れていた。

最近、夫の物忘れがひどい。

「昨年、(夫が姑様の)摘便した」と教えると、してないと言い張る。自分の母親はそんな情けない人間でないと言いたそう。ああそうですかと、私も意地になって、「ネット上に私は日記書いてる。それにちゃんと書いてある」と言うと、やっと納得した。

日記とはこのブログのことですが、それは確か12月5日のことですが、日記見せろとまで言われなかったので、ここはこのまま続けて行きましょう。

姑様と一緒に食べるお弁当はこれ、と台所のテーブルの上に置いていたのに、置き忘れている。

「あれ、弁当は?」ですって。知らんがな、自分のことは自分でしないと。

ついでにデジカメも忘れ、私のスマホで記念撮影を。私もメールに添付して送るしか方法知らないので、そうするつもり。

私も最近物忘れひどいので、二人で確認し合いながら、残りの人生、歩いて行きましょう。


 

https://www.youtube.com/watch?v=yTIKNpUSD8k

ドイツ、クリスマスのディスプレイに喜ぶ子供たち。

私の孫にも見せてやりたーーい。 

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カリンを透明水彩絵の具で描く

2019-11-29 | 水彩画

昨日は一週間遅れの水彩画教室。

先生のお宅へ友達と出かけます。二人欠席で、二人だけ。

大家の先生に申し訳ないけど、素敵なアトリエで音楽聞きながら、頑張って描きました。

モチーフはカリンです。カリン、好きです。

形がそれぞれ違って複雑、色も薄いので陰影もよくわかる。それに、最近好きになった黄色です。

描き始めたとたん、先生が「色が濃い」と言われて、手本に少し描いてもらいました。

人の絵に手を入れることのない先生ですが、よほど目に余ったのでしょう。

形や色を追求しすぎない。といつも言われるのですが、それでものの本質に迫るのはなかなかに難しいことです。

描いているのに「描きすぎない、塗りすぎない」とは如何?

未熟な私には禅問答の世界です。でもまあ、私の運転で出かける往復の車中、早めについてスーパーの駐車場でおしゃべりと、楽しい時間もあるので、頑張ります。

最近では先生よりも、やはり画家の奥様が相手してくれることも多い。人柄のいい奥様とは女同士の話をして、人生の先輩として教えられることもいろいろ。

親戚の家に行ったように落ち着き、友達とも近況話して、昨日は解散。やれやれでした。

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ストレスを少なくする5つの方法

2019-11-27 | 断想

ミュンヘン。玩具店のショーウィンドウ。電動で動くぬいぐるみたち。2012年11月

ミュンヘンの街角、雨。

https://www.youtube.com/watch?v=fb5AeNHEkN4


私にとってのその方法を、この秋自分なりに考えたり、人の話やブログなどを参考にさせてもらってまとめてみました。


★上から目線で人にもの言う人には、黙ってないで反論する。ケンカにならない程度に。今までの私、人に「偉そうにしている」と思われたくなくて、いろんなこと、我慢していた。

★嫌いな人と距離を置くことに罪悪感を持たない。人生の時間は有限。いい所見つけて仲良くなる時間があれば、自分の好きなことをする。

★同じ場所に執着しない。思い切って一歩を踏み出し、新しい自分になる。

★人の親切には感謝の言葉を。口にすることで感謝が定着する。そして人にはなるだけ親切に。いつか自分に返ってくる。返ってこなくても、その時の自分を肯定し、したことまで後悔しない。

★自分の話はブログの中だけにとどめ、日常生活では人の話をよく聞き、共感する心を持つ。

とまあ、こんなところでしょうか。

昨日、一緒に街歩きした人、2年前くらいからポケモンゴーにはまっていて、一緒にいて嫌なこともあったので、今回は思い切って、別行動の時間も取りましょうと提案したらすんなりと了承してくれた。

午後から、四国の自宅近くの商業施設で、ポケモンゴーのオフ会があるそうで、ランチの後は早々に解散。

彼女曰く、とても楽しいそうで。人との交流もあるしとのこと。スマホの容量がいっぱいになり、ラインのデータがとんでしまったとか、ご主人のスマホでもポケモンして、写真のデータ、全部消えたとか、楽しそうに話している。

しないし、よさの分からない私には中毒にしか見えないけど、まあ人様が何をしようと私には絡んでこない。

しかし、キャラを追いかけるあまり赤信号で踏み出すのはやめてもらいたいもんだあ。70歳女性、ポケモンゴーに夢中で交通事故なんてことにならないよう、頼みます。

彼女が、同じことばかりしてないで、新しいことすればいいのよと教えてくれた。なるほど。

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倉敷へ

2019-11-26 | お出かけ

四国の人と待ち合わせて、倉敷を歩きました。

広島~倉敷アウトレット往復バスが無くなって、倉敷も行きにくくなりましたが、今年は四回も行くことになりました。

観光はどちらでもよろしい。たまった話をすればそれでよし。幸い暖かくていいお天気。楽しく過ごしました。


いろいろ話しているともうお昼です。美観地区外れでピザ食べました。

同行者は用事があるので、食後解散。

私一人で街を歩きます。

店いろいろ

路傍

 町並み。景観を維持するのも大変です。

路傍。

鉢植え。

商店街。

チボリ公園時代のからくり時計は休止中。

往復新幹線で高くついた。やれやれ。暖かい日を惜しむように出かけまくる私。

来月はおとなしく家にいて、たまった用事、片づけましょう。


帰ると、地元のグループが発刊した小説の同人雑誌が届いていた。

昔、別の同じグループで活動していた人が送ってきたもの。

また一緒にやりませんかとのお誘い。お誘いはありがたいけど、同人雑誌はもうやりたくない。

その心は、自分が書くのはまあ下手なりに何とか出来るかもしれないが、人様の素人の小説を、読みたくないのに読まされるのはとても辛い。

書いている人は、自分の思いを時間を割いて文章にしているので、言わば命の時間と引き換えくらいの尊いもの。褒めて差し上げて、またその方の生きる元気になるようにしないといけないのだけど、逆に言えば素人の、自ら読もうと思わないものを読んでいいとこ見つけるのは辛い。

若い時ならそれも勉強と思ったけれど、今はもう残された時間は有限、したいことだけこなしていくのでも精いっぱい。

せっかくのお誘いだけど、断ることになると思う。

自治体が募集した小説の審査を頼まれたこともありますが、本当の素人がやむにやまれず書いたものは技術は未熟でも、言いたいことがじかに伝わってきて、心動かされることもありました。

しかし、同人雑誌を長くやっておられる方は個性的、かつプライドの高い方も多いので、下手なことは言えないし、人間関係のあれこれに巻き込まれたくないし。あんなしんどいこと、よくやっていたなあと言うのが今の感想。そこにしか自分が生きている実感、感じられるところがなかったから。

子育ての日々、閉塞感でいっぱい。あの時代にネットがあり、発信する機会があればとも思うけど、簡単に文章が発表できる今と違い、集まって、お金出し合っての世界。そこにしか自分の場所がなかった。

今はどこにあるのかなあ。今日話した人、お稽古事をよく変わっている。人間関係が鼻に突き出すとさっとやめるそうな。やめると、次自分が何したいか見えて来るそうで。なるほど。

あと10年でしょうか。何とか活動できるのは。さて、残された日々、大切に大切に使いたいものです。

2012年11月。ドイツ、ローテンブルクで。

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ああ、物忘れ

2019-11-25 | 随想

2012年11月 ドイツ、デュンケンスビュールで。シューウィンドウのクリスマス飾り。


今夜は夫が会合に出かけて夕食作らなくていいので、スマホで今年のメールをあれこれ見ていた。

で、5月に友達に会うことになっていて、連絡する約束していたのにすっかり忘れてそのままになっていることに気が付いた。

うわあ~大変。

彼女も忙しい身なので、私が忘れたこと、忘れてくれてたらいいんだけど、気を悪くしていたら申し訳ないので、慌てて返信を。

五月にする筈のメールです。本当に恥ずかしくて、申し訳なくて、相手のこと軽く考えていたと思われたら、本当に申し訳ない。返信が来るといいんだけど。

最近、物忘れがひどく、とても印象的なことも、あれ、あれはいつだったっけとしばらく考えることも増えた。話しながら、初めの方に話したこと忘れたり、話してもないことをもう言ったと思ったり。

これが老人力と言うものでしょうか。まあ、何でも忘れること、忘れること。でも忘れていることを自覚している間はまだまし。

忘れたことさえ忘れ果ててしまう時には、夢は真冬の追憶のうちに凍るであろうby立原道造の境地まであと少しです。

実はこの一月ほど、ちょっと落ち込んでいたことがあったのです。会おうと約束してくれた人(女性)から、その後何の具体的な話もないので、私のことで何か気を悪くしたのかなと心配していました。

でも私のケースのようにただ単に忘れただけかもしれない。その可能性もあると思うと、少しだけ気が楽になりました。いつ連絡来るかなあと待つうちに、待つことにも飽きてしまい、今はもうどちらでもいい心境。

彼女かと話したかった時には、私も他のことでいろいろあって聞いて欲しいこともあったのですが、昔の男の友達のことや、いろいろ楽しかったことを思い出すうちにだいぶ気持ちが落ち着いてきました。

物忘れの効用があるとすれば、嫌なことは忘れるということでしょうか。本当に嫌なことは何かのきっかけで思い出すけれど、普段はなるだけ心穏やかに過ごしたいので、実害がないことにはもう腹立ててもしようがない。と思えるようになった。

楽しかったこと、嬉しかったことは時々思い出してしっかり心に刻んでおきたいものです。嫌なことはどんどん忘れて行きましょう。

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京都紅葉急ぎ旅

2019-11-25 | 旅行

日帰りで京都まで行き、なるだけたくさんの紅葉を見る。忙しい旅行です。メンバーは夫、私。

二人とも、いい歳して、いつまでこんなことやってるんだあ~

今回は9月と同じく、阪急交通の広島~神戸こだま往復5,500円の企画チケット、残りは自分で乗車券買います。

JR嵯峨嵐山から、バスなどには頼らずとりあえず奥嵯峨、鳥居本まで歩きます。約40分で到着。

鳥居本、鮎料理店。

このあと、つい清滝隧道(トンネル)歩いて清滝川まで、だいぶ時間使った。反省。

なるだけたくさんの紅葉見る。忙しいです。

愛宕おたぎ念仏寺。

奥嵯峨の一番奥。戦時中は無住だったそうですが、近年は観光寺院として参拝客が多いようです。

化野念仏寺。入り口から重伝建(重要伝統的建造物群?国が指定する)の通りを見下ろしたところ。

この付近から人多し。

清凉寺

隣接する宝筐院。白河天皇開創。楠木正行、足利義詮菩提所。古刹。境内コンパクト。

紅葉多し。

書院から。

紅葉見頃。

通路を反対側から。

続いて常寂光寺。

16世紀の開基。小倉山山麓にあり、展望所から京都市内の眺めよし。

野々宮神社へ向かう竹林。人多し。

渡月橋から天竜寺前辺りは、車の乗り入れができず、歩行者天国になっていました。路線バスも運休中。

歩くしかない嵯峨嵐山観光。いゃあ、大変です。


やれやれ、昼過ぎましたが食事せずに、続いて嵐電鹿王院から昨年も行った鹿王院目指します。

電車下りて、京都風に言うと下ル。数分で道案内が。

山門。1380年、足利義満が普明国師に建てさせた当時のもの。約640年前?

足利義満の書いた扁額。

山門を振り返る。

昔、玄関として使っていた部屋から庭を見る。

舎利殿。源実朝が宋から招来した仏牙舎利を納めた多宝塔あり。内部、立ち入り自由。開基当時の嵯峨の絵地図(元禄年間に模写)もあり。

右手、モッコクの木は樹齢400年だそうです。

その他、本堂には仏像のほかに足利義満の木像、運慶作の十大弟子像などあり。

と、大変見どころの多い、隠れた名刹。

開基以前の寺宝が多いのは、どこかの廃寺のものを受け継いだのかもしれませんね。私の想像ですが。

帰ります。団体客がいなくて静かなお寺でした。

続いて四条大宮まで行き、遅い昼食。京都駅行きのバスに乗って、七条烏丸で乗り換え、養源院を目指しますが、烏丸通は渋滞。七条通りも車多く、着いた時には四時までの拝観時刻は過ぎ、門は閉まっていました。残念。

トンネルが余計だった、とトボトボと引き返します。

今熊野観音寺へ行くつもりが、バスが全然来ないので諦めて豊国神社へでも。

京都国立博物館の前を通って・・・

着きました。明治になってから再整備されたようです。

隣りが方広寺。

大きな鐘です。豊臣秀頼が寄進。

国家安康、君臣豊楽。

耳塚。そろそろ夕暮れ。

豊国神社前の御前通は初めとても広く、すぐに狭くなる。

渉成園、東西の本願寺で通りは寸断されている。

豊臣氏の痕跡を徹底的に消そうとした徳川幕府の執念が感じられます。

御前橋から鴨川を見る。

歩いて京都駅まで歩いて行くつもりでしたがさすがに疲れ、高瀬川沿いに七条通りへ出てバスに乗る。激混み。ドアが閉まらず、片手は手すりに、片手は夫の服につかまり、体は斜めのまま。

いゃあ、大変でした。

すみません~前の方、もう一歩ずつ進んでください。と、今度は大きな声でお願いしましょう。


続いて神戸へ。

元町から南京街へ。

広場。

中華の食材買い、夕食も食べて帰ります。

三宮寄りの門。

あとはガード下を歩いて。三宮から新神戸へ。

帰宅は24時前。歩いたのは約3万歩、大変良く歩きました。

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もう一人の男の友達

2019-11-23 | 随想

基町クレド 2014年11月


毎日毎日、昔の男の子の話書いて、こんな記事、需要ある筈もなく、人様には退屈なだけ。

でもシニアのブログはボケ防止ですよね。今、昔のこと思い出す波が来ているので、忘れてしまわないうちにこの人のことも書いておかねば。そう思って書いてます。平にご容赦を。

もう一人の子は、過去の人ではありません。今年になってからも電話貰ったし、同窓生が集まる時は何となく二人で幹事役する流れなので、今のことや個人が特定されるようなことは書けません。

同じ、文科系の部活していたんですよね。部のみんなで、お弁当持ってよく遊びに行きました。屋島や塩江の奥や観音寺に海水浴に行ったこともあるので、友達といっても遠くの親戚くらいの感じ。

同じクラスになって、修学旅行があって、男女一人ずつ修学旅行委員という役があって、その男の子と、女子は私ではなく、別の人でした。彼女は美人で頭が良くて、背が高くて、私の友達がライバル心燃やしてましたけど、私は特に。。。。

でも私は差し出がましくも、修学旅行の準備いろいろ、その男の子、R君としておきますけど、とした記憶がある。

修学旅行委員の女の子は、自分の友達数人で、放課後の教室に残り、広島へ持って行く折り鶴をせっせと折っていた。その人たちがあまりに楽しそうなので、私の美人の友達が悔しそうに、「今度の旅行はあの人たちが中心よね」と言っていた。でも彼女たちは鶴折るだけ。

私は裏の、影の修学旅行委員。

何したかと言えば、学校からくれる旅行のしおりのほかに、クラスだけの旅行のしおりを作るのです。

内容はバスの毎日の席替え、バスの中でのレクレーションの計画、夜、旅館の大広間でクラスごとの遊びの計画(ほかのクラスはしたかどうか知らない)などなど。そして最後は歌詞カード付き。カラオケなくても昔はみんなで歌っていた。今になるとちょっと信じられないけど。

何を盛り込むかをあらかたR君と話していたけど、時間足りなくて日曜日の午後、わが家へ来て相談した記憶がある。その時一緒に来たのがP君で、二人とも自転車で30分くらいのところを我が家にやってきた。P君が我が家に来たのはその時の一回きりだけど、R君は私の弟とも友達になってくれて、私が結婚した後は私抜きで遊んでいたらしい。

当時の我が家は典型的な田舎の家の間取り、私が中三のころ、父が弟二人と私の勉強部屋を庭の一部を潰して建ててくれた。10畳くらいの洋間で、渡り廊下でつながった離れになっていたので、弟の友達も私のところへ来る子も、玄関通らず、庭を通って、廊下の掃き出し窓から上がってくる仕組み。これはなかなかよかった。

なんで本当の委員差し置いて私がそんなことする破目になったかと言えば、なんでだろ。R君が私との方がやりやすかったのかも。P君はR君の弟分みたいな感じだったので、一人で来にくくて声かけたのかもしれない。

今、つくづくありがたいなと思うのは私の両親は、私が、どんな友達と付き合おうが、全然反対しなかったこと。全く自由にさせてくれたこと。家に男の子が訪ねてきてもうろたえることなく、お茶やお菓子や食事も出してくれたこと。内心はどう思っていたか知らないけど、まあ友達はいないよりはいる方がいいくらいに思っていたのでしょう。

原案作って、印刷は今みたいにパソコンないので、部の道具使って私がほとんどガリ版切ったと思う。R君も少ししたかも。ホッチキス留める製本を我が家で三人でしたのかも。この辺り記憶あいまい。

毎日教室で顔会わせて、部室で一緒で、たまには家にも来るんだけど、彼もまた友達でしたね。今思えば。彼はすることが大人びていて、生徒会もやってたし、祝祭の中心にいた人。そばにいると楽しかった。女の子からもてまくってたので、私なんか出る幕ないと初めから諦めてたけど。

でも一緒にいることが多くて、いろいろ遊んだので楽しい思い出もたくさん。高校卒業してからは弟とも遊んでくれた。

彼は大学に行く傍ら、関西のさる企業の社長さん宅に住み込み、そこの中学生の男の子のお兄さん役していたらしい。一緒に遊んだり、勉強教えたりが仕事内容で、食事と部屋は社長さん提供。あの人らしいと、友達同士で感心した記憶がある。

まだ学生だった頃、春休みの真夜中、弟が車でどこかへ行こうと言い出して、先ずZ君の家に行き、ピックアップ、それからR君の家にいきなり押し掛けたことがある。かれはコタツでテレビ見ていたけど、ご家族はすでに就寝中。就寝中にも関わらず、お母さまが起きてこられてカステラ出してくれた。

もう、若い盛りの娘がとんでもないことしています。真夜中に人の家訪ねて、親起すなんて。本当に失礼しました。弟がいたから親も何にも言わなかったから、弟にも感謝ですね。z君も元は私がらみの人だけど、私と友達になる間もなく、弟と友達になり、ずっと長くお付き合いさせてもらいました。もう故人になられましたが、感謝ですね。

結婚する直前まで、私は実家から仕事に行っていたのですが、あとひと月もしたら結婚式という頃、ばったりと高松市内の丸亀町商店街でR君に会ったのです。喫茶店で一時間くらい話したと思う。

もうすぐ私は広島へ行くと言えば、彼は四月から大阪の新聞社で働くと話していた。留年したのか、院へ行ったのか聞きそびれたけど、R君に新聞社って、ぴったりの仕事だと思ったのを覚えている。

なんかもて自慢みたいに読まれたらごめんなさい。

私は容姿も成績も普通の範疇。でも、きれいな人、頭のいい人がたくさんいる学校で、私なりに楽しく過ごせたことを出会った人達に感謝したいと思う。

このブログ、高校生や若い人が読んでるとも思えないけど、若い時に楽しく過ごすコツは自分から楽しい気持ちでいることかな。どうせ私なんてと暗い顔していては、男の子も女の子も寄って来ません。容姿の足りないところは愛嬌でカバーして、いつもニコニコ明るくふるまう。

キャンプ何か行っても、きれいな子は見栄えのいい楽な仕事して、できなーーーいなんて言ってキャッキャ騒ぎ、男にちやほやされるけど、そんなのにいちいちめげず、誰もしたがらない地味な仕事を率先してやりましょう。

たった一人、そんな姿に目を止める人がいればいいのです。私の経験上、その一人もいないことが多いけど、普通の人間が美人の真似しても痛々しいだけ、自分は何の取り柄があるのか冷静に考えて、そこで勝負する。とまあ、昔の自分にアドバイスするならそこでしょうか。

頭のいいのも、きれいなのも、持って生まれたもの。そこを羨ましがってもしようがない。自分は自分らしく、一番大切なのは誠実さ。どんな時も人よりちょっとだけ嫌なことも引き受ける。それもアドバイスしたい。

男の子シリーズもそろそろネタ切れ。いつまでも昔話している場合ではない。年末にかけて忙しくなる予想。何でも早め早めに。

つまらない話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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私も恋愛の相談したこと、思い出した

2019-11-22 | 随想

昨日の話の続き。

P君の恋愛のこと聞いたのは、もう22歳くらいになっていたかな。私がどんなアドバイスしたのかとうに忘れたけど、人様の心配より、私だって大変な時だった。私もその時に相談したと思う。具体的なアドバイスはなかったけど、高校時代から変わらない顔でニコニコして聞いてくれただけで、ずいぶん心が楽になった記憶がある。

たぶん帰省していた時、連絡とり合って会ったはず。考えてみれば頻繁に会っていたのに、お互い、いつも別に付き合っている人がいたから、これはもうどう考えたって友達。

そのことにきょう改めて気が付いた。で、友達だって、自分で選んで友達になるんだから、そして続いて行くんだから、これはもう浅からぬ縁と言うしかない。似た者同士何でしょうか。いえいえおこがましい。私よりもいろんなことで優れている人でした。

結婚して子供ができたころ、当時広島市郊外の職員住宅に住んでいたけど、広島に学会があったそのあとで、タクシー飛ばして訪ねて来てくれたことがある。その時が、夫との初対面。二人は同じ業界で仕事する身なので、終わったばかりの学会の話とか、私には分からない業界の話もいろいろ。

私の男の友達が訪ねてきて、内心はどう思っていたかは知らないけれど、夫は淡々と相手していた。そこはありがたかったなと思う。私、夫の昔の女の友達が家に訪ねてきたら・・・どうするかな。付き合い方にもよるけど、相手にもよるけど、夫よりはきっと心の狭い私。いい歳してこの傾向は少し改めなければと、気が付いた。

それから43年の間に、P君とは二度しか会ってない。いずれも同窓生の集まりで話をしただけ。こちらから連絡とらず、あちらからも連絡ないので、もしかしたらもうこの世では会うことはないのかもしれないけど、いっぱい笑わせてくれた、決して偉ぶらないその人柄を思い出すと、心の片隅でずっと小さな灯がともっていて、内側から私の心と体を温めてくれている気がするのです。

で、P君への今生の最後のお願い。

半世紀前に私の描いた油絵持ってるそうですが、描いた私はすっかり忘れています。それに、どうせとても下手に決まってます。人様の持ち物にあれこれ言う立場にはありませんが、恥ずかしいので、何かの折には断捨離していただけませんでしょうか。伏してお願い申し上げます。

ああ、恥ずかしい。

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男友達ではなくて男の友達

2019-11-21 | 日記

今月初めに映画「マチネの終わりに」を見てから、20歳前後のあれこれを思い出すことが多くなったんだけど、男の友達のこともちょっと書いておきたくなりました。

男友達ではなくて、男の友達。

異性だとあまり意識しない付き合い。会うのはものすごくブランクありながらも、年賀状だけは続き、同窓会だとつい話し込んでしまう男の子。過去には恋愛の相談も受けたから、これはやっぱり友達でしよう。

書きにくいのでP君としておきましょう。P君も、クラスで作った遊びの班の一員。たまたま同じグループになって、ものすごく面白い人で、ものすごく楽しませてもらった。あまり勉強している様子もないのに勉強ができて、京都のさる大学のさる学部に現役ですんなりと入ってしまった。

親しくなったのは高校卒業してから。進学する直前の春休み、もう一人の男の子とP君と私で、先生の下宿に遊び行った頃からかな。で、P君とはそのあと高松や京都でよく遊んだ。

私は男の兄弟しかいないので、小さい時から男の子と遊ぶのは割と平気。あちこち出歩くのも好きで、京都へ行ったときには、特に男の子と意識することもなく、連絡して京都を何度か案内してもらった。

相変わらず面白いことばかり言って、けらけら笑う私といいコンビだったかもしれないけど、若い男の子が付き合ってもない私のためにわざわざ時間作ってくれて、申し訳なかったと、今になれば思う。

あちらにしたら、なんで何度も訪ねて来るのか不可解だったかもしれない。気があるのではと誤解されそうだけど、私は友達の感覚。ご免なさい。そういうところに気が付かないのが私の未熟なところで。

30年以上たって、たまたま三男が同じ大学に合格した時にはとても嬉しかった。三男のためであるけれど、また京都で遊べると自分のために嬉しかった。

大学の長い塀に沿って息子と歩きながら、一緒に歩いているのがP君で、私は20歳くらいとふと錯覚しそうになったことも何度か。三男も面白い話することに命かけてる男だったし(落研部長、落語、漫才、ピン芸、南京玉すだれなどを学生時代に履修済み)大学のたたずまいはその頃とほとんど変わっていないので。

人生はまだ始まったばかり、行く手には無限の時間があるって、何の疑いも持たなかった。若いとはそれだけ不遜。先が見えない。

面白いけれど、人をとても大切にする人だったと今になればわかる。それは元々備わった性格。偉ぶるでもなく、何のわだかまりもなく話せる稀有な人。奥様おられるので、私から連絡とることはありませんが。

物理をたまに教えてもらっていたんですよね。私は物理が大の苦手。

男の子は自分の得意な部分で頼られるととても張り切る。その時そう思ったわけではなく、今になればわかるのです。私の聞いた問題、授業も聞かずに解いてくれてました。ご免なさい。そしてありがとう。

人生で出会える人はごくわずか。楽しかった思い出が、今も私を元気づけてくれる。いつも楽しませてくれた人には感謝してもしきれない。恋愛の相談までしてくれて、それもいまだに嬉しい。いつまでも元気でいていただきたいものです。

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コート、できました

2019-11-21 | 縫物いろいろ

後ろ。背中の剥いだところが攣れています。お見苦しくてすみません。


 

襟なし、単衣仕立て。前立てはだいぶ広く、前だけしっかりしている。

本当は冬用の生地で仕立てるデザインと思うけど、先月酒祭りで買ったウール地、二色で。

スカート以外の服を縫うのは本当に久しぶり。懐かしかった。

で、今日ゆめタウン行ったら、似たようなデザインのコート、安く売っているのでがっくりです。

でもまあせっかく作ったのでせいぜい着て出かけましょう。

この本の

このページ。

若い人と中年の着こなしが紹介されています。

私みたいに、年金貰う身でいいのかしら。

いいことにしましょう。

着てみたらガウンみたいだった。ガウンにするかも。。。。


ミシン出してるついでに、既製服、直しました。

フリマで買った裾がバルーン型のワンピース。

裾さばきが悪いのでカスタマイズです。

裾を切ります。

縁はジグザクミシンで始末し、折り返してミシン掛けます。

切り落した布でポケット作りました。

普段着はポケットあると何かと便利。

エプロン代わりに着るかもしれませんが、冬は家でも登山服ばかり着ているので着ないかも。


おまけ

最近昼の10分くらい、家の北側から日が射すのでびっくりです。

北からのかなり強い日差し、なんで???と光の方を見れば、かなり離れたマンションベランダのアクリル板に太陽光が反射しているのでした。まぶしいーーー。

日が射すのは10分間くらいですが、ちょうど、裏のマンションは自転車置き場になっていて、光が届くようになりました。

不思議。都会では陽が北から射すこともある。太陽高度は毎日変化するので、いつまで続くか分からないけれど。

 

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きっかけは・・・

2019-11-20 | 随想

今朝は早く起きて、自分のブログ読み返した。

昔の人のことばかり書いているので、今、まだ起きてこない人のことも少し書いておきましょう。

うーーん、何だったかな。美術部新入生の自己紹介の中で、とびぬけて背の高い男の子がいたのです。

出身高校言われても、広島の高校の名前、全然知らなかったので、だいぶたってから私立の男子校と知りました。

思春期の六年間を男子校で過ごして、素朴な人でしたね。私のように高校のとき、遊びまくっていなかったのでしょう。

(高校生で遊びまくるってたかが知れてるけど。部室にうどんの出前とったり、下校時にうどん屋へ寄ったり←思い出すのは殆どうどんがらみ!!)

絵のモデルになってと言われたのが、声かけられた初めだったかな。以後、いろいろいろいろいろあって、さらにいろいろあって、またいろいろあって今に至る。

学部違うけど同学年の同い年なので、たぶん人さまから見たら、対等にもの言ってると思う。

容姿と言う点では、私に比べて持っているものの多い人だけど、その資産を生かすすべを持たない人。それでいいんですけどね。

こんなこと書いて、このブログ、ばれたらどやされるかも。

姑様が若い時はとてもきれいな人でした。女優さんのように。

育った家の文化が全然違うので、大変なことも多々あったけど、子供たちは自分の思い通りに育て、今はわが家なりの雰囲気(あえて家風と言わない)ができていると思う。

何でしょうか。

何でも手早くチャッチャと。時間作って文化活動。運動大嫌い。これは夫も嫌いなので話が合う。というか、運動が嫌いで苦手、絵を描くのが好きと言うところだけが共通点かと思う。

あまりにネガティブな要因も時には人と人を結び付けることがあるわけで。

その昔、美術部の部室で、女の子からダンスパーティ行こうと強く誘われていたのに断っていた。

どうして?と大分たってから聞いたら、体動かすのが苦手だそうで。そうなんだ、私もそうです。

まあ、いろんな人がいるから世の中は面白い。息子たちも運動は苦手のようですよ。ご免ね、こんな親二人で。

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駆け引き

2019-11-19 | 随想

https://blog.goo.ne.jp/kawashima134/e/4ef69b325c5e579e5eb867616d9e0634

前にも書いたことあるけれど…前のブログだったかな…友達が私の付き合っている人と二人きりで会いたがっていると知ったとき、どうするかという選択。

三人で会う約束していたのに、風邪ひいて行けないと友達から電話がある。

「じゃQ君に知らせておく」

「いい。私から言うから」

彼女を加えて三人で会う前に、二人で会う約束だったので、予定通り私は出かける。

Q君は電話受けてない。

「なんか、風邪ひいて来られないみたい」

「ああ、そうか」

口には出さないけど、Q君も多分気がついていたと思う。

こんなときどうすればいい?

まあ3択でしょうか。

➀ 彼氏を彼女の待つ店へ行かせて、私は帰る。彼女の望んでいたのはこれ。

② 風邪ひいて来られないんだから、店へは二人とも行かない。

③ 二人で彼女に会いに行く。それはちょっとかわいそう。

あなたならどうしますか。

もう飽きてたら➀のようにして、彼女に譲ってもいいかな。なかなかそこまでは思いきれないけど。

③はご本人のプライドもあるので、しない方がよさそう。私はそんなに意地悪ではありません。

普通は②ですよね。

どこへ行って何を話したかはもう忘れた。年末だったことは憶えている。娘時代、家の手伝いをするでもなく師走の街を男の子と歩いていた。

子供や孫を迎える準備もなく、料理作る心配もなく、年末年始、いつまでたっても慣れない経理の事務に追われることもなく、ばあちゃんにも娘時代があったこと、思い出した。

ほとんど唯一のスリリングな出来事。

時々思い出して、しみじみと噛みしめるのは、私にあまりにこんな体験が少ないから。少ないからよく覚えている。

持て自慢みたいに聞こえたらごめんなさい。それは私の不徳の致すところ。若い時は誰でも心のテンションが高いので、容易に人を好きになり、嫌われて落ち込み、人の恋愛がうらやましく、男の子と一緒のところを友達に見られるとちょっと嬉しかったり。まあ、子供でしたね。

高校卒業して二年間くらいは帰省して街の中心部歩いていると、2、3人は同窓生に会ったもの。そのうちだれにも会わなくなったのは、みんな帰省しなくなったからでしょうか。

携帯やメールのない時代は、親にも筒抜け。わが親は娘の付き合いには口出ししなかったけど、跡取り娘の友達はいろいろと大変なようだった。

男の兄弟がいるいないで女の運命も変わる。それは今も同じかもしれない。

遠い遠い日を思い出しながら、そんなこと考えてみる。

 

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コート鋭意製作中

2019-11-19 | 縫物いろいろ

毎日、出歩いているのでなかなかはかどりませんが、昨夜で何とか形が見えるまでにこぎつけました。

参考にした本ではダブルフェイスの生地で単衣仕立て。

私は色違いの二つの生地を繋ぎました。

裏地があった方が安心なんだけど、めんどくさいのと軽く仕立てたいので裏なしです。

袖は前と後ろとまち、三枚で作ります。

後ろ身頃の見返しがまだついてないので、縫い目がお見苦しいですが・・・

後ろはこんな感じ。

背中心の突合せ、袖が色違いでほっそり見えるデザインだそうですが、ほんとかな?

https://crosset.onward.co.jp/b/pc/Product.html?mthd=07&SC=OWD&PC=KRWOKW0403&CC=004

↑着こなしはこんなふう?

参考はオンワード23区より。

ロングコート、真冬にサングラス掛けて、ウェストバッグを胸にぴったりくっつけて広島の街を歩いている自分をイメージ。

モデルと全然似ていない自分に自分で笑う。

せいぜい背筋まっすぐ伸ばして、速足で歩きましょうか。

 

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入試制度がおかしなことになっているらしい

2019-11-18 | 随想

私の最後の子供の最後の入試は2002年、あれから17年も経っているので、最近の事情にまったく疎かったのですが、どうもおかしなことになっているようですね。

私たちの時代…半世紀以上前には国立は一期校と二期校に分かれていて、三月初めと三月二十日ころにそれぞれ試験がありました。

一期校は旧七帝大を含め、戦前からの大学が多く、二期校は新設の大学や地方大学などが。四国では徳島と高知が一期、香川と愛媛が二期だった記憶があります。

国立出願する子はたいてい一期、二期のふたつ。一期の発表後に二期の試験があるので合格していたら受験しない。おのずと格差があるという感じでしたか。

全国一律、受験生が同じテスト受けるのは共通一次試験に始まり、大学入試センター試験になり、やがて全国統一テストになるらしい。

短期間で膨大な答案を処理できるようになったのは、コンピューターがこの半世紀の間に目覚ましく発達したから。と私は理解しています。

代々木ゼミ創設者の話を以前新聞で読みましたが、当時は合否判定も徹夜で、一人ずつ出していたとか、驚くほどのアナログの世界でした。

入試はどの受験生にも公平に扱うことが大前提、そうでなければ信頼性が失われます。

英語の業者テストの導入は、国の怠慢。しかも複数のテストとなると、普通に考えたって、それで一律の評価出すのは無理に決まっています。国として、受験生にどんな英語力を求めるか、ビジョンを持って責任もって問題作っていただきたい。

それに国語と数学に記述式テストを導入し、それは大学として参考にしてもよし、しなくてもよしって・・・はあ???

記述式テストの膨大な解答を、短期間に同じ基準で採点するのはどう考えても不可能です。

なんでこんなことになったのかと不可解でしたが、英語のテストも記述式も政治家の大きな利権があると言う話を聞き、たいそう納得。今の政権ならやりかねん。

高校生が記述式反対の署名集めて文科省に提出したそうな。こんな心配までしないといけない子供たちがかわいそう。今の政治家、入試を頑張てきた人もいるとは思うけど、親の地盤を受け継ぎ、勉強していない人も多いように見受けます。入試なんて他人事なんでしょうか。

いかんなあ、私も年取って、納得できないことに怒ることが多くなった。

我が三男、国語が大の苦手だった。今受験生で、記述式なんて言われたら、へそまげて受験しないかも。

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