本日夫が忘年会、すっかり忘れていてバスセンターで買い物して帰った。最近、物忘れが多い。昨日のおかずも忘れがちだけど、ブリ大根に野菜炒めは憶えている。なぜって、残り物、お弁当にしたから。
午後から開店するカフェは、昼間はお弁当食べる場所。今日は事務の人と少し話した。年寄りが何でこんなところに?と不審がられる前に社会人の受講生と名乗る。大学の事情も少し話してもらう。
別れがたき、我が学生生活。しかし、作品展に向かって最後のダッシュです。
本日夫が忘年会、すっかり忘れていてバスセンターで買い物して帰った。最近、物忘れが多い。昨日のおかずも忘れがちだけど、ブリ大根に野菜炒めは憶えている。なぜって、残り物、お弁当にしたから。
午後から開店するカフェは、昼間はお弁当食べる場所。今日は事務の人と少し話した。年寄りが何でこんなところに?と不審がられる前に社会人の受講生と名乗る。大学の事情も少し話してもらう。
別れがたき、我が学生生活。しかし、作品展に向かって最後のダッシュです。
午前中、駅近くの手芸店へ行く。10月に新幹線口から行った時はどうしても見つからなかったけど、きょうは南口からの道で行ってすぐわかった。
この店、久しぶりです。手芸、洋裁材料に用具、品ぞろえがいい。
昨夜、レーヨン糸というのを探してネット徘徊していたけれど、実際にどんなものが流通しているのか、確かめるために。
レーヨン糸は洋裁の糸と、後は手芸用の紐。
洋裁の糸は細すぎて手織りは出来ない。紐は細いのなら何とかなりそうですが、手織り糸に比べるとうんと高価。今使っているのは200gで、800m=80,000㎝の長さの糸。1,500円くらい。今度はリリアンが適当かなと思うのですが、それも45㎝で300円とかそんな値段。
作品織るのに要所だけ使ってもかなりの金額になりそう。リリアンの糸、どこかで巻で売ってればいいんですが。
結局2色だけ買って試し織予定。
午後からはセーターのほころびを直したりするうちに夕方。
夫が昼間、車を車検に出し、代車を貸してもらえないとかで徒歩で帰宅。
私なら20分で歩くところを30分かかったそうで、こんなこと書かなくてもいいのですが、後で読んで参考になると思うので。
無理して歩くと後が不調とのこと。日頃は歩かずに座っていることが多いので、余計体が固まるんですよね。今は週に二回整体に通っている。なるだけ長く健康でいてほしいものです。
仕事も80歳までには止めると思うけど、止めるときの後始末は始める時より大変な予想。36年前には姑が手続き関係など、大分助けてくれた。今度は助けてれる人もいないし。案外簡単かもしれないけど、やってみないことには分からない。
で、自賠責の証書がないという。自動車保険の更新のときに持ち出して、元へ戻していないらしいとのこと。
またかよーーーー!!
と、妻立腹。何でも使ったものはすぐに元の場所に戻す。これ鉄則。年取るとそれでなくても物忘れがひどくなるので、私はそれを心がけています。
家の中はシンプルに、物も用事も減らして、すっきりのんびり暮らしたいものです。
織り機を移動して掃除をしまた。
小は壁際に。
大は窓際に。
まだまだ頑張るモミジ。
冬至を過ぎたら日増しに明るくなる。
飽きたら狭い庭を眺めながら。
好きなものも手近に置いて。
先月、赤穂線伊部いんべ駅で買った備前焼の一輪挿し。
盛大に水が漏れる😞
それでドライ専用にした。庭のシロモジとどこかで拾って来たヤシャブシ。
小管に残った生川の細い糸。ほどいて、糸は捨てた。
自作のストロー製は糸ごと捨てる。
タッセル用の糸と紐が届いたけど、激高だったので別の店に頼んだ。
今度は30mの人五紐。これでも足りないかもしれないけど、一色だけ取り寄せて少し織り、ゲージを数えてみる。
そろそろ年末年始の経理の方も気になるけれど、それどころじゃないもんね。
でも昨日はゆっくり買い物して、狭い庭の掃除もして心がほぐれた。
何もないことがいちばんいいことかもしれない。
織りは、糸を揃えて紆余曲折しながら、結局春先までもたもたする予定。
すっかり工芸の人になった私。今回はオフィス家具のショールームで昨日から始まった展示を見てきました。
場所は三越斜め向かい、明治安田生命ビル1階です。
路面電車の通りに面しています。
作品は全体にとてもあか抜けていてテーマも明快、お洒落なオフィス家具やインテリアによく馴染み大変勉強になりました。いいもの見ないと刺激は貰えないということでしょうか。
写真をいろいろ撮りましたが、今回控えておきます。来月の13日まで。お近くの方、ぜひどうぞ。
↑こちら。
三男よりラインあり。
いろいろやり取りするうち、「高松から東京なんぞへ出るもんだから人生が狂うとの○○おじいさんの名言が思い出されます」って、最近の某党首の話題に引っ掛けて。
そうなんですよね。私が東京の大学に合格したので行きたいと言うと、ものすごく反対された。その話、息子は憶えていたらしい。
高3の出願の頃、父は胃の手術で入院中、反対押し切って願書出し、東京まで受けに行った。
初めは軽い気持ちで喫茶店でバイトしていても、四年生の頃には悪い男に騙されて東南アジアに売り飛ばされているって、半ば本気で言っていた。
そんなに娘が信じられなかったのか。そんな情報、どこで取って来たのか、未だ謎。父は25年前に亡くなったので、とうとう聞きそびれた。
トイレの水漏れはタンク下部のホースとのつなぎ目と判明。素人の手には負えない。タンクに故障時の連絡先のシールが貼ってあったので、明日以降連絡の予定。
自分でしなくて済んでやれやれです。人間も古くなり、家も古くなり、だましだまし、最後まで。
きょうは昼休みに避難訓練がありました。小学校などと違って大学では実際に避難はしません。主には放送の確認。山の麓の大学なので津波は大丈夫と思われます。
工房の裏は山。一度歩きたいと思いつつ、果たせていません。
国際学部と情報学部の間の植え込み。
ススキにツワブキ。季節は秋から冬へ。
サクラは一足早い。
来年の展示会用パンフの写真撮る。ラインで事務へ送るのは週明けの予定。
大学内のコンビニで文庫本を買う。
この作家は久しぶり。夜のピクニックとか、関西のどこかの鉄道路線を舞台にした作品とか、隣町戦争とか面白く読みました。
学生割引で5%オフとなりました。
助教の先生が布を大量に捨てていたのでもらってきました。
昔のワンピース生地のようなものや、水玉模様は撥水性のある布なのでエコバッグにいいかなと。いつ縫えるか分かりませんが。
旅行には小さなショルダーバッグとエコバッグで出かけます。
エコバッグには脱いだ上着、観光施設で貰うパンフ、コンビニで買ったものなどを入れます。同じ重さでも荷物は二つに分けると軽く感じます。
なかなか使いやすいエコバッグに出会わないので、自分で縫うつもりです。
いつになるか分からないけど。
秋に会派の工芸部門の人だけで集まり、作品を見せ合う。予定が変わって一週間早くなり、あたふたしています。
午後にここまで。
今回の順番。綜絖→緒巻に結ぶ→本筬とシンブル。櫛筬は使わない。
最後まで綾竹(棒)は外さない。綾があればどんな不測の場面にも対応できる。
「命落としても綾は落とすな」の諺通りでございます。
そんなこんなで出かけそびれ、夕方はテレビ見ながら明日の登校に備えての撚糸。一時間で10m4本取りが2本くらいしかできない。しかし、二つの用事が同時に済むのでいいのかも。
昨日は近所に買い物に出ただけ。
ハヤトウリお買い上げ。すっきりとおいしく、薄切りにしてバルサミコ振りかける簡単料理でも、素材の新しさで食べられる。
私が嫁に来たときからある八百屋さんは、絶滅寸前の地元商店街にわずかに残る店。ほとんどがマンション、コンビニになってしまった。
戦後、街中が原爆で壊滅した後、島から魚や野菜を持ってきて道端で売り始めたのが商店街の始まり、以前はたいそうにぎわっていた。
このお店は青果市場のほかに、島の農家から直接仕入れる模様。たまに珍しい野菜あり。最後の2個を買う。今年も瓜に出会えてよかった。麹に漬けるのもいいらしい。乾燥麹は持ってるけど、その前に食べてしまいそう。
世間にキュウリはふんだんにあるのに、なぜ瓜がないのか不思議。子供のころ、夏はお盆過ぎるとよく瓜を食べていた。大量に出来るので残りは奈良漬に。下の弟が酔っ払っているのを見たことある。
来年は庭で瓜を作りましょうか。温暖化で難しいかもしれないけど。
今回の総選挙の結果、与党が過半数が取れず、国民民主 党の動向に注目が集まっていますが、玉木代表は我が出身高校の同窓生と最近知りました。その後の経歴は雲泥の差ですが。
あの人、高校の同窓生と言うと、香川県にあんなに目のぱっちりした人がいたんか~と夫が申しております。
あんたみたいに目の細い人ばっかりかと思ったって・・・ヲイヲイ
党の政策などはこの際横に置いて、経歴を見ると世襲議員でないところに私は親しみを感じました。
生まれは県庁所在地から見たら遠隔地、地元の小、中を出て、高校はおそらく国鉄での汽車通学では?一時間くらいかかったと思う。
駅降りてからはバスもあったでしょうが、待ち時間考えてか、学校までの15分くらいを歩く人もたくさんいました。
ネット情報によると、お祖父さんは農協の組合長、お父さんは農家と獣医師をしていたそうで、この場合はペットではなく、家畜対応でしょう。種付けとか、お産とか。お祖父さん、お父さんは農村社会でのリーダ―的存在だったことでしょう。
地方の暮らし、農家の暮らしを知っている人の視点で、政治に新しい風を期待したいところです。首班指名で、石破氏、野田氏のほかに玉木氏の可能性も言われているので、しばらくは目が離せませんね。
県内、別の選挙区の小川淳也氏も同窓生。玉木氏と同じく、東大に進学。こちらはお母さんが地元で美容院を経営しているそうです。同じ選挙区では自民党の世襲議員が今回も落選、比例で復活当選しました。この方は地元新聞社と放送局を持っている一族の生まれで、お父さん、お祖父さんも国会議員でした。
忘れもしない60年以上前、皇太子妃決定に際し、確か参院議長だったお祖父さんも決定の会議に出席したと、地元紙一面に大きく載っていたのを憶えています。父が地元代議士の活躍を喜んでいましたが、一族経営の新聞なら当然大きく扱うはず。新聞記事が議員の活動を結果として応援する格好になっている。
都会の人には想像できないかもしれませんが、地方では、特に大学進学率が高くない時代には、出身高校が人物評価には大切な物差し。この世襲議員の方は地元の別の高校出身。こんな場合、高校からは東京へ出るという方法もあったかもしれませんが、それは何かお考えがあったことと思います。
どうしてもあの高校でなければだめ、通らないなら高校からアメリカへ行かせるという話を聞いたこともあります。そのブランド力も県内に限ってのことですが、能力のある人が東京へ出て行って、何の分野であれ活躍するのは同窓生として嬉しいことで、私もこのささやかなこの場所で納得する人生を全うしたいと改めて思ったことでした。
でも、同学年の一部の人たちみたいに、東京で活躍しているって、同窓会で自慢するのはなしよ。本当に活躍している人は黙っててもみんな知っている。自分の話、東京の話ばかりじゃなくて、相手の話も聞こうね。そして何よりも地元幹事への感謝の言葉を忘れずに。
先日私が言いたかったのは、姑の世話をしても亡くなった時に「有難う」と改まって言える夫は、私の狭い見聞からは稀、ということ。言えない夫に不満をためず、過ぎたことは忘れる方が自分のため。あなたも早く忘れなさい、と。
けど、すぐそばにその礼の言えなかった我が夫がいるので、言えなかった。残念!!
夫はもちろん、義弟妹からも何の挨拶もなかった。これはどうしたことかと、釈然としなかったけど、人の考え、行動を私はコントロールできないのだから、ほぼなす術がない。
こんな時どうしますか。私はあなたの親の世話をしたのでお礼言ってほしいと言いますか。そんな人もいるでしょうが、言えない人も多いと思います。
同世代の人と話していて、その納得できない部分を心の中に抱えていて、何かの時に聞かされることもある。そういう時は、大変だったねと、聞くことにしている。同情からではなく、それも少しはあるけど、その話しぶりにその人らしさが集約されていて、それぞれに個性的、汲めども尽きない人の面白さがあるからです。
若ければ、それをもとに何かまとまった文章でも書きたいところですが、もうそんなめんどうなことはしたくない。
このネット時代、どこかに思いの丈を吐き出す掲示板でもあるのかもしれないけど、読むのは毒気に当てられそうで近寄りたくない。
私にとっては済んだこと。完全なるボランティア。自分の数ある経験の一つ、どの経験も無駄になることはない。それをこれからの人生に生かすのが介護を経験した意味。
先日の人の姿を見て、その思いを強くした。嫌だった経験もいいように生かす。それしかないように思います。
ついでに思い出したけど、2002/3/23の夜、一時間くらい自分の舅姑の話を聞かされた時には、私も今より若かったので、「相手を変えるのは難しい。自分の考えを変える方がまだ簡単」とアドバイスしたけど、真意が伝わらなくて、同じ話を繰り返されたのには閉口した。
私もあなたの親である我が舅姑の愚痴を言えばよかったのでしょうか。そんなことを普通はしないですよね。それに私は一度も婚家の人の悪口を実家で言ったことがありません。自分のプライドもあるし、言えば百倍にして心配するのが親の常。言わないのが何よりの親孝行。
なんで日付を憶えているかと言えば、翌日は、京都日帰りで、三男の学部卒業式に行く予定でした。用意していたところへ話を聞くことになり、時間がなくて焦ったのでした。
三男は修士課程へ行くし、男の子なので「来なくていい」という対応でしたが、京都に他に用事もあるとか何のかんのと言って会場へ。
その頃はホームページをしていて、その中の日記コーナーのネタに、仮装の多い卒業式を見たかったのでした。時事ネタ、戦隊もの、女装する大男、大きな自作らしい椰子の木(意味不明???)を抱える学生さん、などなど。楽しませてもらいましたが、訓示をする学長さんはごく普通に、式も滞りなく終わり、さすがでありました。
式後待ち合わせた息子は「親が来るなんて」と、終止不機嫌、しかし強引に一緒に食事して別れる。この時は、卒業記念のあるパフォーマンスを時計台の前でして、友達に動画撮ってもらう予定だったけど、みんな寝坊して誰も来なかったと後で聞かされた。食事中もずっと携帯いじっていたのはそんなわけがあったのです。
休みも殆ど帰ったことのない親離れした息子と、それを追いかける子離れしていない母親。人のことは冷静に見られても、自分は変なことしている母親でした。そして今もおそらく。
この時には毎度毎度の話に姑がギブアップしたらしく、嫂の私に全部話して聞いてもらいなさいと言ったと、姑が後で話していました。
私はその任にあらず。私が信頼されていたのではなくて、姑も持て余していたのではないかと思います。
私が母の立場ならどうするかな。「嫌で別れるのなら相談に乗る。そこまで決心してないならよく考えなさい。誰と結婚しても似たようなもの」と言いつつ、やはりものすごく心配すると思う。
晩年まで、実母が「あんたが息子三人連れて帰ってきている夢をたまに見る」と言っていた。それは母の恐れか、隠された願望か分からないけど、親は心のずっと深い所まで親なのでしょう。
「帰るって夢の中で私の息子は何歳?」
「うーーーん、小学生くらいかのお」
で私は30台で、母は50歳くらいだそうです。夢の中で。息子たちはもうおっさん、立派な中年なのに。
過去の嫌なことに足を取られていたのでは、楽しい未来へたどり着けない。
仕事、子育てから解放され、まだまだ元気で動ける今が人生の最後のご褒美。うんと楽しみましょうと言いたいけど、まあ言わなくてもいいかな。