30、31は母と温泉へ。
宿の部屋から瀬戸大橋がよく見えます。
少し朝もや気味
食事はまあ普通。
付き出しと刺身
炊き合わせ
天ぷらなど
名物蛸ごはん
デザート
母と一緒に瀬戸大橋を渡り、母は帰宅。私は高校時代の恩師、友人と待ち合わせ、ホテルで食事して、ロビーでお茶して4時間ほど話して帰宅。
先生にいただいた本のお礼を言い、近況報告と昔話。50年近い時間を一気に越えて、昔の教室にいるように話をした。今は塾を四つの経営している友人は同じクラスで同じ新聞編集局(通称新聞部)だったし、三人で話しているといろんなことを次から次へと思いだした。
専門は史学方法論の先生が、ひょんなことで香川県の高校教員になり、国語を教えることになったいきさつから始まり、当時は16歳で取れた軽自動車の免許で普通自動車に乗り、学校へたまには車で来ていたという友人。職員の駐車スペースに置いていたのだろうか。私も乗せてもらったことがあるけど、コロナは軽自動車とばかり思っていた。めちゃくちゃである。そして、それで済んでいた時代である。
「私たち、近所の店から部室へ出前取ってましたよね」と私が言うと、「教員でも出前なんか取らないのに生徒が取るなんて」と先生は呆れておられました。
「お店の人は普通に正門から入って、職員室の横を通って三階の部室まで持ってきてましたけど。それで一度も見とがめられたことはないし」と私。
「そうそう、それで岡持ちがいつも部室にあった」と友人。
それから同級生の誰彼の噂も。
「生徒会は新聞部の傀儡政権だったから、次の生徒会長を誰にするかは新聞部の三人くらいで相談してで決めていた」
へえ、そうなんだ。で、友人は文化祭委員長をしていた。学校行事の中でも一番派手な行事の最高責任者。仕事は一年がかり。本館の一階真ん中あたりに生徒会室があり、そこに文化祭の委員もいつもいた。
先生が、私の家へ家庭訪問に来られた時の印象だとか。友人は先日93歳で亡くなられたお父様と一緒に、進路のことで先生の下宿へまで行った話とか。
友人は最愛の奥様を数年前、くも膜下出血で亡くされた。お悔みは言うまいと決めていた。そのことは触れず、昔のように友人として話をして元気になってもらうことが何よりのお悔みになると私は思ったし、私自身も何も考えずに笑い転げていた娘の時代に戻ったようで嬉しかった。
同窓会にはほとんど行かない私。話したい人はほんの一握り。個別に会えば済むこと。でも奥様のご存命中は、遠慮してほとんど連絡取ってなかった。
「きょうはP下も呼ぼうと思ったけど」と友人。彼は京都大学の医学部に現役で合格して、今は京都で開業医をしている。「平日なのに」と私が言うと「いやあ平日でも声かけたら来るはず」「患者さんほっといて?」と私「患者さんほっといて」と友人。
そのP下クンが描いたいたずら書きがなぜか先日出てきたので、きょう持参したら先生にも友人にも受けた。話は尽きず、時間は瞬く間に過ぎてもう帰宅の時刻になり、瀬戸大橋線と新幹線を乗り継いで家へ。
とこんなことは、ブログ読者諸兄には面白くもなんともない話。私には今日の記念にしたためた一文。なにとぞお許しを。
帰宅途中、夫から携帯に電話が。去年電話工事してから電話料が引き落としではなく振り込みになり、振り込み忘れて午後から電話を切られていたそうで。前代未聞、我が家開闢以来の不祥事。
帰宅した時には電話は復旧していたけど、ああみっともない。振込用紙を見逃した私が悪いんですけどね。
また一年後くらいに会いましょうと、再会を約して分かれた。一年後まで元気でいよう。そして一年後にはこんなことをしたと言えるよう頑張りたい。