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「骨風 」 篠原 勝之

2015-11-26 | 読書

11/25 10,811歩

自伝的小説。いくつかの短編から成る。すべて死とその周辺のことを書いている。

父、母、弟、飼い猫、交友のあった有名無名の人たち。死はどのようにも書けるけれど、嘆き恨みつらみを超越して、ちょっと斜め上からの淡々とした視点と書き方。

何かというと殴ってくる父親から逃れるように17歳で家出して、芸術家としての今までの生活ももう一つの読みどころ。決して順風満帆で来たわけではなく、文字通り、地の底をはい回るような苦労もして、好きな作品を作れるようになったそのいきさつが面白い。

既成の考えにとらわれず、あくまでも自由に淡々と。自由は孤独と背中合わせ。その孤独さえも楽しむ仙人のような境地。

こうなれないから羨ましいのかも。でもこの中のいろいろな苦労、したくないです。辛すぎる。お母さんの認知症が興味深かった。最近、認知症のことが気にかかって仕方ない私。Why?


 

 

広島ドリミネーション2014年12月。今年もクリスマスがやってきます。

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中区図書館で本を借りて、もう返した

2015-11-23 | 読書

それはこちらでございます。

 

某信者団体の新聞か何かに連載されていたようです。

アマゾンでは歌人の書く小説、山場がないと星三つですが、私はなかなかどうして面白く読みました。

どうしてかって・・・著者とは短い期間でしたが、近所付き合いし、お互いの家を尋ねあってお茶しながら、時には夕食に招待したりされたりしながら、いろんな話をしたからです。市内、山の麓のマンションにも一度お邪魔しましたね。

もちろん小説ですから、作り事として読まないといけませんが、この中のエピソードのいくつかや、主人公の夫は、現実のかつてご主人だった人を彷彿とさせます。

また、ご主人の田舎の家族とのやり取りなども、当時リアルタイムで聞いていたので、彼女がそれを消化して書くまでには40年近い時間が必要だったのだなと、思った次第です。

著者はよくご主人に仕え、賢くて優しい人だったのに、何で別れてしまったのかと謎だったけど、この本で少しは理解できました。

妻に文才があり、勉強していい作品を残したいと頑張っているのに、それに嫉妬するなんてなんて小さな男でしょう。医者なんですからね、美しい妻は自慢の種。世間から認められるほどの能力のある妻を持つことは、それ以上に自分の価値を上げることにはなりませんか。

Q先生、女を家に閉じ込めてはいけませんね。って、やっぱり小説と現実を混同する私。

それに当地を去ったいきさつの一端も分かりました。卒業した学校、学科、専攻の封建的支配がずっと続く業界。理不尽なことも呑みこんで耐えるか、出ていくか。去るも地獄、残るも地獄。彼女は=小説の主人公はとても頑張り、しなくていい苦労もしたと思う。

別れる前の修羅場では思わず涙が出た。

広島、チェルノブイリ、福島、インドのペレナス。主人公は各地を訪ね、生きること、死ぬことについて考えを深めていく。人生は一つの橋、誰もがそこを渡って行く。

大学時代の男友達と再会し、たまに会って話をし、被爆二世の彼がもう予後もあまりない時、自分もまた同じ病気になったことを告知される。

訪ねたガンジスの岸辺で、大勢の沐浴をする人の中に、亡くなった父母に似た顔も見つける。

そこは此岸と彼岸が接する場所。大きな自然を前にして、自分が生かされるのも死んでいくのも、自然の中の現象。怖くはない。精いっぱいに生きればいいんだと、私なりの読後感でありました。


 

おそらく書店にはないと思い、中区図書館まで借りに行く。

いいお天気です。電停から歩いて行きます。萬代橋の上から平和大橋方面を見る。元安川にかき料理の船が浮かんでいます。

到着。いいお天気です。ついパチリ。

本借りて裏へまわります。梶山俊之文学碑は25年くらい前に地元有志で建立。何でもこの辺に生家があったそうで。私も一口くらい参加した気がする。

向こうは本川と神崎中島橋。

川の見える一階はレストランに。

原爆投下時までは県庁、あとは青果市場、そのあと県や市の施設色々。昔は広島藩の船屋敷があり、水主町と呼ばれてましたが、いつの間にか加古町と字が替わっている。

それじゃこの土地の来歴が分からん。字だってむやみに替えてはいけないと私は思う。

もう一度返しに行くのが邪魔くさいので、図書館の近く、河岸のベンチでで読むことにしました。

目の前を宮島行きの遊覧船が。

鷹野橋まで行って遅い昼ご飯食べて、ぶらじるでコーヒー飲んで、また川岸まで。

だいぶ日が傾いてきました。元安川と新明治橋。ここで最後まで読んでその足で返却、帰宅。

借りずにアマゾンで買えばいいのですが、すぐ読みたかったし、ちょっと複雑な思いもあり、今回は借りることにしました。M浦さん、大作、お疲れ様でした。

川と橋の広島。河岸は木がいっぱいでくつろげる場所。寒くなるまでせいぜい外出を楽しみたいものです。

 

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「黄昏記」 真野さよ

2015-11-22 | 読書

黄昏 http://www.futta.net/photo/759.htmlよりお借りしました。


1978年に自費出版した本が、のちに岩波の同時代ライブラリーとして再刊、それを最近買って読んだ。

1967年に亡くなった認知症の母の闘病記であり、介護の記録を小説仕立てにしたもの。当時は脳軟化症という病名が付いていたが、病気の進んでいく過程は今も同じ。娘の目から見た母親の変化が丹念にたどられる。

真面目で几帳面な人が呆けやすいと、私の周りでは都市伝説のように言われている。ほんとかな。じゃ、いまのうちから不真面目になろうなんて不届きなことを言うのも、まだ間があると高をくくっているから。

お母さんは認知症の総合デパートのように、ありとあらゆる症状が次々と現れる。物忘れ、妄想、幻覚、昼夜逆転、幼児返り、失禁、弄便・・・

途中から施設に入れるけれど、当時の施設は洗濯は家族が持ち帰ってするし、施設の職員が暴力振るったり、しょっちゅう家族が呼ばれたりと、今とはだいぶ様子が違う。介護保険もない時代、家族の負担も大変なものである。

がしかし、この本ではまだきょうだいとその配偶者が助け合って介護にあたり、何よりもこのお宅は裕福で、お金の心配はあまりなさそうなので、今の時代にそっくりそのまま当てはめることはできない。出てくるエピソードも古風。この時代は、着物が縫えなくなって認知症の初期症状。私など初めから全然縫えないので、その面から見たら症状は重いかも。

赤ちゃんから大きくなる過程は誰もよく似ているのに、歳とって死ぬまでは千差万別。日が暮れるまでの長い時間、人生の黄昏時をよく観察した本ではあったけど、こんな死に方したくない、哀れすぎるとつくづく思った。

今からそんな心配して暗くなるのもおかしいけど、老いについて深く考えさせられた一冊。

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「間取りの手帖remix」 佐藤和歌子

2015-11-17 | 読書

宮島口 epiloで。二階がカフェです。自分の家にしたいけどそうもいかず・・・寛ぎます。お勧めです。


 

賃貸の部屋の広告から見つけた、変わった間取りをたくさん取り上げ、一緒に笑おうと言う本。アマゾンで1円で購入。もっとたくさん間取りがあると思っていたので、残念。

どの家も狭い。狭い土地に無理してビルを建て、それをなるだけ細かく区切って、貸すのだからどこかに無理が出るのは仕方ない。

しかし、その家で暮らすうちに不便に耐えられなくなったり、狭いのが嫌になったり、不自然な動線で妙に疲れそうなそんな部屋ばっかり。見る私も疲れてしまった。

著者のコメントは笑い倒すという立場を崩さないが、現実にこうした賃貸物件があり、借りる人がいるという現実はとても笑えないのでは。

この間取りの数々には現代社会のひずみが、その末端でとうとう耐え切れずに形になったという、何か異形なものを見る心地悪さが私にはあった。

私は老人用の施設、または病院にいるまではもうひっこすこともなくこの家に住むと思うけれど、もし今の家を出て一人暮らしをすることになれば・・・どんな家がいいかなとしばし空想に遊んでみた。

海の見える丘の上、バス停は近く、徒歩圏内にスーパーもある。古い家を借りて、縁側のある広い部屋のそれぞれのコーナーで、機織り、水彩、洋裁、パソコンをする。真ん中が食卓兼読書机。いえいえ、本は寝て読むか、椅子にもたれて読んで、背筋伸ばして椅子に座って読むと落ち着かない。

隣の部屋は書庫かな。その隣が着物入れる部屋。いやいや本も着物も思い切って手放すのもいいかもしれない。

と、生活をしばし振り返った。

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「優雅なのかどうか、わからない」 松家仁之

2015-11-15 | 読書

以前この人の「火山のふもとで」を読み、風通しのいい恋愛小説を楽しく読んだ。浅間山の麓、夏の間だけ避暑をしながらの建築事務所、そこでの人間模様。私には縁のない世界なので、心地よかった。

で、本書である。二時間くらいで読める。おしゃれな中年男の恋愛がよく書けていると言いたいところだけど、今回だけは女の私には、胃の辺りに沸々と怒りの感情が起きてくる

これって、殆ど男性の妄想ではないだろうか。ずっと以前、市の発行する文芸集の審査員を二度ほど務めたけど、(とさりげなく自慢する。深謝)、定年退職して、どれ小説でも・・・という男性の作品に時々こうテーマのがあった。

大して魅力的でない60代男性が、なぜか若い女性にもてまくるのである。いい気なものと思い、そんなのはバッサバサと落としていったけど、自分もまた60歳を過ぎたのでよく分かる。中高年男性の魅力はまず財力である。定年退職した人ならば、元は公務員か、大企業、年金のしっかりした人はもてる。世の中は案外シンプルな原理で動いている。

この主人公は出版社の編集者、高給取りである。有能な妻がいながら、仕事関係で知り合った若い女性を愛人に持ち、両方のいいとこどりするうち、妻にも愛想をつかされて離婚し、愛人も煮え切らない態度に「辛い」と離れて行ってしまう。

もうお、はっきりしない男だと、私は歯がゆい。どちらへでもいい、自分から別れを切り出さんかい!!と後ろ頭を張り倒したい気分。息子がこんなことしてたら許さん。まあ、その甲斐性もないと思いますが、無くて幸い。

小説では、離婚して古い借家に引っ越し、家主の好意で思うようにリフォームするあたりから、スノッブ臭が鼻につく。私は。それは古い洋館という、今ではほとんど残っていない家に住む人への嫉妬もあると思う。小説の中の人に嫉妬するのもおかしな話だけど、なんか話がうまく進みすぎる。進んでもいいんだけど、どうせ絵空事だからと思わせてはいかんのです。小説は。

引っ越して、昔の愛人に蕎麦屋で再会。聞けば近くに住んでいるという。やがて二人はよりを戻し、正月には彼女が、認知症になりかかった父親と住む家で過ごし、隣の家が火事になって、そのあと土地が売り出されるのを買うところで話は終わる。

若い女性も女性である。こんな人いるんだろうか。さんざん自分をもてあそび、青春を捧げた挙句に、結婚もしてくれなかった人。別れたいと言っても、追いかけても来ず、奥さんとも別れずに頬かむりした人。なんでまたよりを戻そうとするのかな。まあ、人のことだから何しようと勝手だけど、私なら文句の一つも言ってやる。よほど、人には言えない何か魅力でもあるのかな。

がやっぱり、相変わらずの煮え切らない男。一緒になろうとはっきり言えばいいのに、相手の様子を見ながら、自分の損になること、嫌なことは周到に避けているようにしか見えない。

きつい言い方だろうか。たぶんそうだろう。

でもね、二人は隣に住むのではなく、家族になれば済むこと。お父さんもそう長くなさそうだし。父親には、夫として関わりたくないのかも。

この人にとっては自分の趣味に合った暮らしが何よりも大切。家の改築。暖炉つけたり、本棚作ったり、二重窓にしたり、そちらに筆の多くも割いている。家主が帰国するので、その家にはもう住めないのだけど、残念がるのがちょっと過ぎるのでは。

別れた奥さんは有能で几帳面で、それなのに浮気されて、私は同情する。浮気はやっぱりまずいでしょう。心の中だけにとどめて、平穏な老後のためには耐えたいもの。そうですよね、世の男性諸氏。

というわけで、とっても歯がゆい小説でありました。

お正月にはウォッシュタイプのチーズ、鴨のリェット、枝付きの干しブドウでワインを飲むんですと。ウォッシュタイプのチーズって…洗えるチーズ????、リェットって????

枝付きの干しブドウは夫が一度、ゆめタウンのカルディで買ってきたけど、食べるところ少ない割に高くて叱ってやりました。そんなもん食べる人の気がしれん。

日本人なら、煮しめに田作りで日本酒飲みたいところ。日本人ならね。でもそれだと別の小説になるんですよね。神は細部にこそ宿り給う。地縁血縁から切れた都会人の、しかも中高年のお洒落な恋愛。

現実はね、なかなかこんなものではありません。私の生活とは全然絡んでこないということで、あっけなく読了。長話深謝。

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「老いの生き方」 鶴見俊輔編

2015-11-14 | 読書


最近、しばしば老後のことを考える。自分はどんな老後を迎えるのだろうかと。で、目に留まったこの本、1988年筑摩書房から出されたのが、97年に文庫化、私が読んだのは昨年発行の第七刷。息の長い本と言えるだろう。

若い時は当然、毎日の出来事に追われ、かつ楽しみ、将来のことなど、この私も考えなかった。周りに年寄りはいたし、今だって年長者はそれなりにいるけれど、老いを考え言葉に残すのは案外していないと思う。

知識人、文筆を業とする人でさえ稀。楽しい話ではないし、生産的でもないし、そして歳とるという当たり前のことをわざわざ書き残さなくてもという思いもあると思う。

しかし、博覧強記を持ってする鶴見氏、選んだ人たちが古今東西まんべんなく、なるほど歳とるって、いろんな能力が落ちて、意識もはっきりとしなくなって、次第に死へと近付く時期なのだとやっとわかった。

昼間と夜の間の日暮れ時、と言ったのは森於菟、老いを自覚したら、体力能力気力、その他持ち物の現在高を確認、その後の道を決めるのは幸田文。なるほど。

人世の終末に向けて、今まで以上に自覚的に生きることを楽しみたいと思わされた。

鶴見さん、センスいいなあと思った。この人のお父さんが、我が息子の一人と同じ名前なので、それを知ってから、私はこの方が半分身内みたいに勝手に思っています。

 

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「御不浄バトル」 羽田圭介

2015-11-05 | 読書

 

昨年11月、宮島口epiloで。


 

面白い小説だった。大卒二年目、ワタナベは電話相談とセットになった問題集を販売する会社の経理担当。会社は、子供の成績を伸ばしたいという世間知らずの主婦を相手に、100万円以上で教材を売りつけるブラック企業。

ワタナベはすぐにでも辞めたいが、三年はいないと次の就職にも不利だからと踏ん張っている。

彼は通勤途中、駅を降りて商業施設のきれいなトイレで用足しをするのが日課。そして会社でも、何かというとトイレの個室にこもる。

一人になりたいとき、食事するとき、果てはダッチワイフまで持ち込む。

排泄をここまで正面から書いた小説って、読むのは初めてかも。排泄でも生殖器系はいろいろドラマが生まれやすいけど、何しろ消化器系ですからね、誰もがしていることだけど、当たり前すぎてすっ飛ばしてしまうところを肉体感覚として拾い上げ、小説に組み込んだところは空前絶後、かも。

排泄て、やっぱり快感なんですね。どちらも体外に出すべくして出て来るもの。そのすっきり感。私は男でないので生殖系については分からないけど、お産のあと、すっきりしましたもん、あの感じかも。

お産はすっきりというか、深く納得。自分が胎生動物だという身体感覚。普段は子宮あること忘れてますもんね。

いえいえ、25年前、病気で子宮も卵巣も取ってしまった私なので、今はお腹の中、スカスカのはずが、代わりに脂肪がついてるので見た目は分かりませんけどね。

自分の肉体に向かい合うこと、その感覚に耳を澄ますことを忘れているけれど、お金が欲しいとか、友達や恋人がほしいとか、いい服着たいとか、いい家に住みたいというのも結局は心と体の心地よさを求める身体感覚かも。

ということで、なかなかに深い小説でした。作者は今期、芥川賞受賞。高校生の時、小説家としてデビューしたようですよ。

 

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