黄色いカタクリ。2015年4月、スイス、ドイツ国境のボーデン湖畔で。
ある方のブログで、鹿の井の桜がたくさん。
鹿の井という地名に反応する私。親戚があり、そのまた親戚はうどんや。おいしいうどんだった。
父が亡くなったのは20年以上前の9月だけど、その一年前のお盆には、父の運転で、注文していたうどん玉20だったかを受け取りに行った。
うどんの製造販売と併せてセルフのうどん屋も兼ねているので、食べる人はうどん玉を待つ人の横を通って涼しい店内に。
食べる人が来れば来るほど、待ち時間が長くなる。スダレを敷いた専用の容れ物には20玉入るんだったか。。。。お盆でお客さんが来る家はそのくらいは買うので列はなかなか短くならない。
炎天下で待つのは辛い。軒下には3脚ほどの椅子があり、そこまでたどり着くとあとは待ち時間も少し。せめてあの椅子に座りたい・・・そう思いながら待つ。誰も文句言わない。けど、テントくらい張ってもらってもよかったと思う。
父はがんの闘病中だったけど、その時は運転できるくらい元気だった。
そのあとのこと、それからのことはちょっとここでは書けない。いつかいっぱい涙を流して、心が浄化されるかもしれないけど。
なぜそんな地名が付いているかと言えば、水の乏しい土地で、出水(湧き水)に鹿が水飲みに来ていたのではないかと思う。
私が子供のころは水喧嘩の伝説がまだあちこちにあった。鹿の井の水喧嘩というのも聞いた気がする。
水田に入れる水をどう流すか、用水路の別れる場所で、利害の対立する農民同士が激しくケンカするのである。時には鍬など持ちだして威嚇しながら。普段はおとなしい讃岐の農民も、水に関しては別。死活問題。水利の取り決めはあらゆる法律の上位に、日本国憲法よりも上位にある決まり事だと、水の流し方を記した古い掛け軸を前に地区の古老が話しているテレビ画像を見たのは今から20年くらい前だったかな。
鹿の井のけんちゃんというのが親戚の子。その家は私の叔母の1人が幼児に養女に行き、親戚づきあいをしていた家。子供が生まれても育たないので、一人よその子を育てると次も大きくなると言われて、叔母は遠縁のその家に初めは遊びに行っただけなのに、待遇がよくて帰らないと言ったそうな。
穏やかな叔母で、養父もとても穏やかな人で、私が遊びに行ってもとても大事にしてくれた。
鹿の井と聞くと、農家の庭先や秋祭りの御馳走や、その家から嫁いでいった叔母の姿を思い出した。叔母は昨年亡くなったけど、懐かしいなあ~。けんちゃんは同学年。おとなしくて静かな子だった。19歳で結婚したまでは知っているけれど、あとはどうしたのかなあ。
昔は親戚が多いので、付き合いも濃淡いろいろ。子供のころ、法事にいつも来るおばさんがどこの誰だか全然知らなかった私。で、ある時フツリと来なくなる。
祖母に連れられて、その人の家に行った気もする。秋空バックにカキの実が実っていたように思うけど、そこまで遡るとあれは本当に見た景色だったのか、私の郷愁から来る願望の景色なのか、それともいつか見た夢だったのか、分からなくなる。
こうして遠くの記憶が淡く融けかけていくのは老いの境地かもしれない。それを焦るでもない私がいる。
イギリス、カンタベリー近くのライで。お菓子屋さんのショーウィンドウ。
2008年6月。
追記
ネット情報によると、鹿の井は12世紀の干ばつの年、居石神社に現われた鹿が掘り当てた出水だそうで。
地元には居石、立石、伏石の三つの神社がありました。合わせて三石。明治の初め、尋常小学校が創設された時は三石小学校という名前で始まったその石碑が、私の通う小学校の少し北、旧道沿いにありましたが、今はあるのかどうか。
立石神社と言えば、大正年間、日本三大小作争議の一つの伏石事件で逮捕されのちに釈放された小作人の一人が、取り調べのきつさから精神に変調をきたし、自殺した神社でもあります。(この争議では日本農民組合から指導に来ていた若き弁護士ものちに自ら命を絶つ)
狭く水の乏しい讃岐平野で、労働集約的な農業を営々と営んでいた先人たちを思う時、川土手が整備されて桜の名所になっている話は今昔の思いを一層深くします。
うーーーん、これは一度見に行かねば。