、11/30 朝、部屋から庭が見えます。
庭に出ます。誰もいません。静かな古都の朝。
チェックアウトしていざ出発。
東山七条角、養源院へ行きます。
七条通りを京都駅方面へ。
フレンチルネッサンス様式の京都国立博物館の向こうに愛宕山が見えています。
清滝が登山口。いつか登りたいものであります。
この付近は西に向かって結構傾斜がきつい坂道になっています。
外資系高級ホテルの前を通って…
以前は京都パークホテルという庶民御用達のホテルでした。
2002年3月、息子の入学手続きで宿泊した時には確か素泊まりでシングル3,500円といううれしいお値段。
朝は近くの喫茶店入ったら、老店主夫妻がとても親切にしてくれました。京都の人は親切。冷たいというのは言いがかりかも。
でも知ったかぶりすると「田舎者」とはねつけられそうな予感。まあ、これはどこの土地へ行っても同じでしょうが。
このあと養源院の入り口がわからず、散歩中の女性に聞きます。丁寧に教えてくれました。
こちらの向かい側でした。
行きます。9時ちょうどくらい。静か。
紅葉のトンネル、古都の秋。
帰ります。
淀君創建、のちに徳川の菩提寺だったそうです。
http://kyoto-higashiyama.jp/shrinestemples/yogenin/
建物内、撮影禁止。俵屋宗達の襖絵に杉戸絵、伏見城遺構の血天井、小堀遠州の庭など、見どころたくさん。
でも人はほとんどいません。住職ご一家で案内などしています。
秀吉さん、浅井長政さん、淀君さんと、歴史上の人物も知り合いみたいに言うのが面白かったです。
血天井は人型に血の跡も残っていて、非業の死を遂げた大勢の人の怨念が漂っているようで、なんかぞくっとしました。
天井を作るにあたり供養してるそうなので、今はもう成仏していると思いますが、戦国というのは死がありふれた時代。命のやり取りをする武士の生き方というのも、なかなか凄まじいものがあります。合掌。
外へ出ます。蓮華王院(三十三間堂)の南大門から塩小路→東大路へと向かいます。
南下して東海道線、奈良線の上を通ります。向こう京都駅方面。
道の両側が今熊野商店街。和菓子、布団、おもちゃなど、地元密着の昔からの商店街。
歩いて楽しいです。
向こうに見えるのが新(いま)熊野神社。熊野詣大好きの後白河法皇が都に勧進。
世阿弥が初めて能を奉納したのがこちらの神社。
クスノキは創建当時のもの?…樹齢850年くらい?
以前から行きたかった鳥戸野陵へ向かいます。
こちらはさだまさしさんの鳥辺野という歌の場所とのこと。寂しいからとそれだけで、来るはずもない鳥辺野であります。
スーパー、フレスコと花屋の間の道を山に向けて登ります。
剣神社の前を通って
山へと向かいます。ここでは右側の谷へ降りていきます。
山道をゆけば散り急ぐように遠近に紅葉の紅道を照らす冬まだき。
風景自身が淋しがってるからひとこまに身を置いただけで自分が救われる…
今から定子陵へ行きます。この付近はよく整備されています。
古代の鳥辺野の地名はこの付近から北に広がっていたそうで、南部は身分の高い人の墓、北部は庶民の埋葬地だったとのこと。現在、広い墓地は清水寺南西部にあるそうで、このあたりには泉涌寺の墓所以外には墓地は見かけませんでした。
職員らいい人が掃除していました。「(おばあちゃんだから)滑らないように気を付けてくださいね」とのことでした。
あの先で右へ。
着きました。共同墓地のようです。掃除が行き届いていたのはさすがです。
定子は清少納言が仕えた皇后。天皇とは仲良かったけど、若死にします。
中宮彰子はその時にはもう入内していたはず。この人の生んだ皇子は何人も天皇になり、藤原道長の繁栄を支えます。しかも90歳くらいまで生きた長寿の人でした。
定子が若死にしなければ、彰子の方が若死にだったら、あるいは道長の運命も変わっていたかも。
清少納言は晩年、泉涌寺付近で過ごしたそうですが、定子の墓所の近くにいることで、華やかな若いころを追憶していたのかも。
光が明るい分、影は深い。そしてそれは人の世の常でもあります。
木立の間から京都駅方面が見えます。
切通しの道を南へと向かいます。
人の心移ろいやすく、その傷癒え難く、立ち止まってうろたえるは愛と同じ重さの悲しみ…
私は一人で気ままに京都をうろうろして全然悲しくないのですが、日常生活を離れると普段忘れているいろなことを思い出します。
京都を一緒に歩いたあの人、この人。あの笑顔にあの言葉。もう会わなくなったけど、会えなくなったけど、お元気でしょうか。
いえいえ、同居人とは毎日会っています。昔一緒に行ったのは詩仙堂くらいだけど。
風はさや 風はさやさや、竹はゆら竹はゆらゆら、振り返るより早くあなたは立ち去っていた…
すみません、どこのどなたかは存じませんが、ブログの流れの都合上、後姿お借りしました。
泉涌寺への抜け道は、地元の人の散歩道になっているらしい。
赤い橋は今熊野観音寺の入り口。
下から見ると新しい橋。散歩の男性が前を行きます。
橋を渡ります。朝日の木漏れ日が気持ちいいです。
今来た道を見下ろす。
山門は特になく、境内出入り自由。
真言宗の寺院。空海像も。
お手洗いお借りしたのでお礼のお賽銭を納めます。拝観終わって車道ではなく、わき道を通ります。泉涌寺の塔頭いろいろ。
総門と言えば遊郭みたいだけど、全体の門をどういえばいいのかしら。山門でいいのかな。
広いお寺であります。泉涌寺はまだ一度も行ったことありません。また次の機会に。
このあと京都市美術館の若冲に行きます。人がたくさんいました。
光源氏が晩年を過ごした六条院は、現在の六条辺りの設定でしょうか。
たぶんこちらの店とも近かったと思います。
京都の西本願寺、北西向かいの法衣店。
五階が小さな博物館になっています。10/19月曜日、見学しました。
京都駅からは七条通を西へ、堀河通を北へ、徒歩20分くらい。私達は西本願寺の北側を長い塀に沿って、あれこれ喋りながら歩きます。
500円の入館料で、四分の一スケールの建物、人形などを展示。とっても精巧にできていて、源氏物語のころの実際の生活のようすがよくわかります。
個人商店でここまでするのは、経営者の方が源氏物語や平安装束に詳しく、かつ好きなのでしょう。
本当なら、もっと大きなところ、自治体などでもっと大規模にすれば、京都の、日本文化の発信としてとてもいい施設になると思います。
世の中は源氏物語や、十二単が好きな人、たくさんいそうだし。かく言う私もその一人ですが。
展示の説明。
人形にもそれぞれ説明があったのに、よく見ていなかった。今度行くことがあればしっかり見よう。館内撮影自由。
今回は女性の髪形というテーマらしい。ということはテーマに沿って、人形を置き換えたりするのかしら。人形はとびきり手が込んでいて、表情も上品。さすが京都の底力と思いましたです。
着物がすごい。これは女房が不義の子、薫を抱く場面らしい。
女房?
こんな感じで40㎝くらいの人形がずらりと並びます。いゃあ、一体でいいから欲しい。持って遊ぶ。
出家した女三の宮。寂しそう。同行者、髪が長いというので、当時の出家姿の標準的長さ、とうんちく垂れる私。人にものを教えるのは大好き、教えられるのは大嫌い。はい、困った性格です。
女房たちが縫い物しています。髪を耳の後ろに挟んだり、後ろで束ねています。これで活動的な髪型。
これは扇で灯りを消す場面かも?
三日夜の餅?
女三の宮との婚礼に向かう光源氏?
女三宮の髪揚げ=成人式
控える女房。裳着をつけた盛装。
出衣いだしぎぬ。顔は見せずに着物だけ。
殿上人。雨夜の品定め風。装束の色が派手すぎず地味すぎず。絶妙。
御帳台。これだけ見ると実物みたいですが、精巧な四分の一スケール。
御殿は全て檜造りらしい。こちらもよくできている。
夏の庭。
別の部屋には竹取物語の場面が。かぐや姫が天女の衣を着て、天に帰って行く場面。
続いて装束の着装体験コーナー。誰もいないので、自分たちで勝手にあれこれ着て、写真撮ってはしゃぎました。いゃあ、楽しかった。
等身大の人形あり。
こちらも。調度も素晴らしい。ピンボケ深謝。
もしもし・・・
オホホホ・・・
狩衣も来ました。袖が大きくて面白かった。狩衣は夏冬二着。でも色合いがはっきりするよう、袴は夏用にしました。
小さな博物館ですが、とても楽しく過ごしました。皆様も京都へ行かれた時にはぜひどうぞ。
有名観光地の清水寺、平安神宮、金閣、銀閣もなどもちろんいいですが、街中にこんな素晴らしい施設があるので、京都はまだまだ遊べそうです。
10/17
さて、嵐山を離れて平安神宮へと向かいます。地下鉄東西線の東山で降り、歩いていきます。
小さな路地が。
街中では道路を縦横に広く造れないので、どの土地も間口が狭くなりがち。さらにその裏へと通じる道もあります。
今の建築基準法その他ができるまだずっと前からの道でしょう。
どんな洋服でしょうか。きっと若いおしゃれな人でしょう。
見えてきました。巨大なコンクリ鳥居。この先に平安神宮があります。
平安神宮は明治になって寂れた京都の町おこし、桓武天皇を祀る社を明治になって建てました。それまではこの付近は農村だったとか。
平安神宮・・・もう50年以上行ってません。最後は中学の修学旅行。そのひと月前、家族旅行で。その二回だけ。どんなんだったか、すっかり忘れた。
今見たらどんな感想でしょうか。でもこの先も行く機会はなさそう。
こちらを見ます。
http://www.momak.go.jp/index.html
尾形光琳へのオマージュの作品いろいろ。以後の日本芸術に広く長く影響を与えたというテーマに沿って、いろいろなジャンルからの芸術を集めている、なかなかユニークな展覧会でした。
土曜日、人はそう多くありません。そうそう、昼ごはんは広島駅で買った赤飯のおにぎりに、自作のお茶で済ませました。場所は嵯峨嵐山の駅ホームで。おいしいもの食べるより観光優先、いつもこんな感じ。何はともあれ、節約第一。
展覧会は・・・うーーーむ、ちょっと散漫な印象。本歌取りという制約上、それぞれの作家の一番いいものではないのかも。ちょっと期待外れでした。
それに何より、館内は冷房がきつく、風邪の治りかけの身には辛かった。咳が止まらず、困った。
やれやれ、やっと出てきました。向こうに東山が見えます。
今度は川沿いに近道を行きます。
紅葉が始まっています。朝夕の温度差が大きいときれいになるそうで、盆地の気候は紅葉にはうってつけ。
川の中のオブジェ。地元の人が置いているらしい。水草たくさん。水質はよさそう。
続いて並河靖之七宝記念館へ行きます。いつか行きたいと思いつつ、春秋しか開館していないので、やっと今回、見学できました。
http://www8.plala.or.jp/nayspo/
自宅兼工房が記念館になっています。今は作品の展示と邸内の公開、人は住んでいないようでした。
庭
庭
庭
作品と邸内は撮影禁止でした。細かな技巧の数々、ゆっくり拝見しました。
続いて地下鉄で烏丸御池まで。もう一つの美術館を目指します。
いゃあ、懐かしい。息子が京都の学生になった13年前、確か入学式で上洛した折に訪れた記憶有。
元NTTの建物で、今は商業施設になっています。当時は何とか見て周れたけど、今はもう若者向けのショップは居心地悪い。
烏丸三条角、みずほ銀行。1906年、辰野金吾設計。2003年、確か前と同じ形に建て替えたと聞きました。
きれいなのはその為と思います。
道路元票。烏丸三条交差点、南東角。向こうは三条郵便局。
中京区郵便局。明治時代の建物。外側を残し、中だけリニューアル。1979年当時は画期的な保存方法だったとか。
京都市中心部は戦災に遭ってないので、明治以後の近代建築がよく残っています。京都人は保守的なばかりではなく、新しいものも取り入れる気風もあるようで、それは千年以上都を張っていたという気風とも通じると思います。自分たちは都会人、新しいものを取り入れ、発信する流行の先端という自負。
明治の建物を見てそんな感想を持ちました。
東京なども焼けていなかったら、もう少し近代建築は残っていたかも。
こちら旧日銀京都支店。現在は京都文化博物館旧館。どこか東京駅に似ているのは、設計者が同じ辰野金吾だから。
イタリアだと赤と白の大理石で作るところを、ここでは煉瓦と御影石。石材の乏しい日本で、白い御影石は唯一使えるものだったのかも。
これは化粧張りではなく、躯体も煉瓦と石?としたら、貴重。
建物前で手作り作家のマーケットが開かれていました。ちょっとヨーロッパ風。でも広場ではないので、窮屈そう。
内部。これも辰野金吾風。
続いて見たのはこちらです。
レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展
http://www.fujibi.or.jp/anghiari.html
フィレンツェのベッキォ宮殿に飾られるはずだったダヴィンチの壁画の一部、摸写した絵を最近東京の富士美術館が入手し、イタリアへ寄付したとか。それを記念しての、関係する絵画、資料を集めた展覧会。
ダヴィンチと言えば「モナリザ」に「最後の審判」と静謐な絵ばかり思いうかびますが、パワフルな絵だったことが模写からも十分伝わってきます。
宮殿の絵がすべて完成すれば、ダヴィンチとミケランジェロが同じ空間に並ぶというルネッサンスの奇跡が起こったそうですが、残念ながら、絵の完成を待たずに壁は上から塗られたそうです。
こちらは人が多かったです。冷房もそうきつくなくてけっこうでした。時に3時過ぎ。5時には名古屋へ着きたいので本日の京都はこれにて終了。
帰りにまた京都に寄り、一泊して帰る予定です。
さて、JR嵯峨嵐山までは市内運賃なので、広島からの料金は京都駅も同じ。嵯峨線(山陰線)に乗り換えて嵯峨嵐山で降ります。
列車内は大混雑。中国人が多いです。一つ空いた席を譲ってくれたので、中国から?と英語で聞いたら、日本語で台湾と答えてくれました。親切でした。
きれいな空気にきれいな景色、きれいな水に親切で穏やかな人々、清潔な街・・・日本はもうものづくりしてもパッとしないし、成熟した国として観光立国へと舵切るべきではなかろうか。
その昔日本人が海外デビューした時代の行儀悪さを思うと、某国の人たちの振る舞いも一過性と思いたい。異なるものに触れるのは初めの一歩、そこから理解が深まるといいなと私は思っている。
などと考えるうちに着きました。
17日土曜日、朝10時前、暑いです。
明日は斎宮行列。斎宮とは伊勢神宮の巫女、皇女で未婚女性が務める習わしだった。伊勢に下る前に嵯峨野の野々宮神社で潔斎する。
光源氏の恋人、六条御息所は源氏の愛が得られず、失望して娘が伊勢に下るのに着いていく決心をする。
一夜、源氏は野々宮の御息所を訪ね、別れを惜しむ・・・というようなことを商店街歩きながら思い出している。
現実と歴史と物語、現在と過去と架空の話が融合し合う京都。自分もまた一歩ずつ物語の中へ分け入っていくような不思議な感覚。。。。
天龍寺の前まで来ました。昔ここは後嵯峨天皇の離宮だったそうで、寺域は今よりずっと広大だったとのこと。入ると一時間以上かかるので今回はパス。
渡月橋も過ぎて
こちらへ来ました。
展示は後で見ることにして、二階で装束着て写真撮ってもらいました。
バサッと羽織って、衿、袖、裾を整えてそれらしく。
座ったりしてすっかり平安女房気分。ああ、気分よかった。だあれも来なかったので、ゆっくりできました。
十二単などは着ません。右は天皇などの御座所、御帳台。
入ってみる。見通し悪くてうっとおしい。貴人も楽しいことばかりでもなさそう。向こうは着付けしてくださったボランティアの方。その節はありがとうございました。
百人一首屏風
蔀戸風の跳ね上げの戸、大堰川に小倉山。ロケーション最高。気分はもうほとんど平安時代。
帯締め各種
名前を織り込んである。どうやって????
一階展示
百人一首と歌人の人形
こんな感じで
明月記複製。筆まめな方。
これは素晴らしい。宮中の歌合せの場面を人形で再現。
人形、衣装、調度、御殿、どれも本物と同じ作り方らしい。素晴らしい今日の職人の技。
女房の衣装。染め、織りは人形用に柄が小さい。冠着けているのは身分の高い人?
こちらは宇多上皇の紅葉見物の場面でそうで。白い着物が上皇。
企画展は紫式部の和歌について。考えてみれば源氏物語の中の和歌は登場人物が詠んだのではなく、すべて紫式部の創作。だって物語の中の歌だから。がしかし、そうでないと思わせ、歌さえもうまく書き分けているのが才能だそうで。なるほど。
いゃあ雅でした。外へ出てもまだ雅な気分が続いています。
大堰川に渡月橋。川の流れは昔と同じ。
駐車場は満杯。
でもちょっと離れると静かなのが嵐山。バス駐車場、天龍寺、渡月橋を外せばまあまあ静かに歩けます。
土産物探さなければツアーでもそれなりにゆっくり観光できる。ヨーロッパツアーで何度も痛い体験をして得た涙の教訓でございます。
次はJRで二条まで。地下鉄乗り換えて東山まで。リンパマッサージではなく、琳派の何とかという展覧会に行きます。それはまた次回以降に。
土曜日、京都で歩き回って17時前、名古屋に着きました。
名古屋駅前には新しいビルができていた。以前の大名古屋ビルヂング?の跡地?
見上げればそびえたつホテル2棟。
桜通り
自然がいっぱい。夏にはカミキリムシやクワガタが庭に来るそうな。
団地の端まで行くと池が見える。以前はバス釣りしていたらしいが、家が増えて今は人影なし。
一台は借りもの。二人とも体が大きいから借りてきたって、誰が大きいんだい???
こっちにすればよかったのに。。。。
敷地内に段差があると、歳とったり、脚にケガしたとき困る。でも二人で決めたことだから親はいらんこと言わない。若い時には自分が年寄りになるなんて、夢にも思わないもんね。この私もそうだったから。
先日、お嫁ちゃんのおばあちゃんが訪ねてきて下さったらしいけど、玄関までの階段に難儀したとか。いずれ私もたどる道です。
分譲地のコスモス。
夜は外へ食べに行ったけど、朝は息子夫婦が朝食作ってくれた。ウルウル。
ちょっと前まで・・・だいぶ前にはコアラのぬいぐるみ持って我が家のそこら辺ウロウロしていたのに、いつのまにかこんなところへ来て、はるばる訪ねて行った両親にご飯作ってくれるなんて。
子供たちが作ってくれたものは一層おいしい。ただ感謝。
続いて京都、街中の宿。
17:41頃。日暮れが早くなりました。
宿に着くと知り合いはもう到着していました。日本旅館にめずらしく、一人一部屋で予約できます。
食事は彼女の部屋で。話に夢中になって食事はほとんど写真撮ってません。今になったら残念。とってもおいしい京料理だったのに。。。。。
思い出すままに。
刺身。量が多かった。
賀茂なすの味噌田楽。なすは素揚げ。熱々で、これまたおいしい。
豆乳鍋。湯葉が入っていた。赤いのはこんにゃくだったかな。昼間、ホテルのバイキング食べて、お腹全然すいてない。こんにゃく残す。
平たくて大きいお皿に、京都の秋の景色を料理で表現。どれも一口ずつ、素材の味が生きていて、おいしかった。何があったかしら。忘れた。エビとか、小芋なんかもあったかな。
すまし汁は松茸一切れ。今年はたぶん最初で最後、ありがたく頂きました。
ブリの照り焼き。味醂がものすごくきいていた。
これもおいしかった。蒸し物。エビかなんかのしんじょをもち米でくるんで蒸し、菊の花びら入りのあんかけ、トッピングは唐辛子の薄切り。一椀の中にたくさんの素材があり、混じり合って絶妙のハーモニー。
食事のあとまたまた大話する予定だったけど、息子の家でほとんど寝られずキャンセル。誰かと一緒に寝るのはとても気になって眠れない。老人ホームも個室希望。でも高くなりそうだし、今から誰がいても眠れるよう練習しなければ。
真夜中過ぎひとりリビングで、本を読む。ゴミ一つ落ちていないきれいな家。髪の毛一本落ちても目立つ。気を遣いました。
朝になりました。部屋から大きなお寺が見えます。
少しだけ紅葉。秋の京都の旅。
京都駅方面。昨夜はあそこから歩いてきました。
朝ごはんは写真撮りました。
手前は胡麻豆腐とくみ出し豆腐。ナスは朝食にも。ナス大好きなので嬉しい。
チェックアウトのあと、歩いて平安装束、着に行ったのでした。彼女は私と同世代、毎日ウォーキング2時間くらいしていて、歩くのはへっちゃら。前日は朝から京都へ来て、駅から平安神宮まで、途中、清水寺や二年坂、八坂の塔、高台寺、石塀小路と歩き、宿まで来たそうで。
京都は歩いて楽しい街。頼もしい道連れです。その他の写真はいずれまた。
6/23 宇治の三室戸寺へ行きました。
京都駅着六時前。高速バスチケット売り場の進々堂でサンドイッチとコーヒーの朝食。JRで宇治まで行けども、どこもまだ開いてないので、宇治川の付近を散歩して、京阪宇治から一駅引き返し三室戸へ。
一本道を歩きます。
途中の道標。左己う者゛くみち(黄檗道)、右ミむろみち。ここは迷わず右へ。
着きました。九時前ですがもうたくさんの人でした。
八重咲き
同じ株?でも違う色。
本堂前はハス
日野有範=親鸞の父親の墓所。親鸞は日野出身。
西洋アジサイ。
この付近は垣根もなく、花が通路へ咲きこぼれています。
花を掻き分け掻き分け進みます。
赤い花も。
可憐
たくさんの花に名残は尽きないけれど、先を急ぐ身、再び宇治川付近へと引き返したのでした。
一人で京都へ行ってました。行ったところは宇治と長谷川家、その他買い物など。
宇治川は流れが速く、水量多い。赤い橋は平等院の対岸にある宇治神社、宇治上神社への参道。
二つの神社は、源氏物語では八宮の宇治の屋敷があった場所とされているそうです。浮舟が身を投げたのもこの付近?
実際に現地に行ってみると、物語が本当にあった話のように感じられます。
三室戸寺みむろどじのアジサイ。たくさんのアジサイに、人は埋もれるようにして歩きます。
花や葉に触れると何故かリフレッシュできます。
京阪三室戸より歩いて10分余り、この時期は人が多いので流れに着いて行くと到着します。
六月いっぱいはJR宇治、京阪宇治との間にシャトルバスが運行中。
源氏物語ミュージアムは宇治十条を題材にした展示が中心。
薫が宇治の大君、中君を覗き見しているところを再現。
装束と調度。
平等院は修学旅行以来約半世紀ぶり。ただいま修復中。
記憶では宇治川に面して建っていて、中州から見学したと思い込んでいたが、あんなに早い流れでは洪水で流されるはず。土手で隔てられた池に面しています。
初めは藤原頼通の別荘として、のちに寺院に作り替えられたそうです。
こちらは匂宮の別業べつごう=別荘の場所とするそうで。
宇治へ来ると、源氏物語は、実際にあった話のように錯覚しそうになるので不思議。景色は物語の舞台としてくっきりと浮かび上がり、物語はその景色により一層真実味を増してくる。いゃあ、恐れ入りました。
これならいっそ匂宮=頼通としてもよさそうだけど、実際の頼通は信仰心の深い真面目な人だったのかも。
あと、京都パルスプラザで籠を買って、十条の長谷川家住宅へ。http://hasegawa.okoshi-yasu.net/
近年公開され始めたお宅。国の登録有形文化財に指定されました。このお宅が実家と言うご夫婦が受け継ぎ、修復し、いろいろな資料を見せて頂きました。
場所は京都駅南方、竹田街道と鴨川に挟まれた場所で、代々庄屋を勤めていた旧家。
修復はほとんど個人の持ち出し、史料整理もまだまだ始まったばかりとのこと。幕末ごろのいろいろな史料があるわ、あるわ、見学者は私一人で、つい話し込んでしまいました。
今この家を受け継がれた方のお父様長谷川良雄は、京都工芸学校=現京都工芸繊維大学の第一期生で、絵を浅井忠に、デザインを武田五一に習ったそう。明治の風景画は明るく端正な色遣いで、地主の余技の域を超えている。三カ所ほどの美術館に預けているのもあるそうですが、二階の一室をギャラリーにして展示しています。
良雄の父清之進13歳の時、この家のすぐ西にある竹田街道を南下し、長州征伐に赴いた会津軍の行列を克明に描いたものが残っています。http://www.kyotoliving.co.jp/article/120922/last/c/index.html
時代の変わり目、世情の様子をこの地で見聞きした少年の新鮮な驚きが伝わってくるような素晴らし絵でした。
史料整理がなかなかできないのでと言われるので、「お手伝いに来ましょうか」なんて余計なことを。私ごときが出るまでもなく、ちゃんとした研究者の学術研究が待たれるところです。
京都駅八条口からは歩いて15分くらいでしょうか。興味のある方はぜひどうぞ。
12/4 宿を出て岡崎道まで。
宗祖親鸞聖人岡崎草庵跡は庭園に。秋が深いです。静か。無料。
吹き寄せ
池
本当の目的地はこちら。観光バスがたくさん。ツアー客たくさん。
お金払わないと向こうへは行けません。ツアーだと旅行料金に含まれてるのかも。
歩いて戻ります。左ち於んゐん 右くろた(一字不明おそらくに)
白川通り商店街。食料品の店が多い。金時人参を二本買う。
白川通り商店街を出ると、これより西八ノ丁場。はて?
白川。確か琵琶湖疏水から浄水場へと続く水路のはず。いつも水がきれい。
帆布製バッグの店
その作業所。派手ではないけれど、出版業界の人たちなどがよく買うそう。持つと知的雰囲気が出るのかも。
私はもうバッグはいらないのでパス。歳とると欲しいものが少なくなって、ああ詰まらない。
さらに歩いて縄手筋へ。骨董店などが多い。
手作り桶の製造直売。しもた屋風。
鴨川と三条大橋。
三条大橋のたもとには皇城を遥拝する高山彦九郎の像が。京都の人たちは土下座前と言って待ち合わせの目印にしているとか。
高瀬川は角倉了以・素庵父子が開いた運河。伏見から京都の中心部へ物資を運んだ。今は気持ちいい水辺に。その水辺のカフェ。
南座は中村勘九郎襲名披露公演中。
なかなか京都駅に辿り着かない。面倒になって四条烏丸に引き返し、地下鉄に乗る。大阪、神戸と寄りつつ自宅へ。
風流、古雅な宝厳院を出て嵐山方向へ歩いていくと、業務食品スーパーが。
店内で、おにぎりはなぜか見つけられなかった。
太秦映画村まで来ました。1989年春、息子三人を連れて来て以来。あれから23年も経つんですね。
小6、小5、年長、騒いで騒いで大変でした。きょうは素通り。
広隆寺まで歩いてきました。境内広大。この付近は無料。
まだまだ頑張る紅葉
火気厳禁。柿はOK
広隆寺前から帷子ノ辻まで、大映通り商店街を歩く。法金剛院で庭掃除していた女性もこの付近へはよく来るとのこと。
息子さんが15年も広島にいたそうで、広島は発展した大きな街だと褒めていただいた。そうかな。。。。
空き店舗を利用した集会所?
バスで天龍寺前まで行くつもりが渋滞がひどくて進まないので途中で下りる。向こう渡月橋。
家に電話して「シチューの鍋は大きいほうのストーブに載せている。探していた書類はあんたが持っていたじゃないの」と連絡。
バスの駐車場。平日なのにこの賑わい。
渡月橋たもと。
嵐の嵐山。人、人、人、車、車、車。
フラフラ歩いていたら、着物の柄を描いている工房に行き当たりしばしの見学。留袖の柄はお客さんの希望で岩国の錦帯橋だそうで。山口県の人なのかも。業界の裏話もいろいろ聞くが画像はなし。来年二月には広島で展示会をするそうで。こちらの染め方は糊を置いて染め分けるのではなく、顔料で描く。染め方にもいろいろ。
やっと天龍寺に辿り着く。裏道通ると嵐山も全然人がいない。新たな発見。
塔頭の一つ。ここへ行くつもりだったけど、気が変わってパス。最初に見た法金剛院の方が自然でよかったかも。
写真だけ拝借。こんなお庭だそうです。
秋も終わり。最後の輝き。天龍寺前。
落ち葉を拾う。
老樹
冬はそこまで。
宝厳院で
既に暗い。午後二時ころ、嵐山の向こうにもう日が沈んでいる。午後から洛西はダメと知っていたのに、まさかこんなに早く日が沈むとは。
「嵐山 峯の紅葉葉心あらば 今はしばしと 入日とどめよ」 あまりの日暮れの速さに驚き、本ブログユーザー即興にて詠める。さも狂歌に似たり。
宝厳院垣。別名蓑笠垣。確かに蓑笠にそっくり。そして昔、瀬戸内沿岸に多く見られた流下式塩田の枝条架にも似る。その心はけっこうワイルド。
このあと嵐電で北野白梅町まで行き、去年行ったおいしいランチのカフェに行くつもりだったが、昼休みだった。仕方ないのでラーメン屋に。近くの洛星高校の生徒さんたちが遅い昼ご飯を食べていた。テスト中?
それからバスを乗り継いで、七条京阪近くの宿へと向かったのでありました。
暮らすように旅する京都。いつか京都でひと月くらい暮らしてみたい。
京都、JR山陰線(嵯峨野線)、花園駅前の寺院。参拝者は私のほかに、植物観察している外人と日本人二人の男性だけ。
保育園児が10人くらい、モミジの葉を手で掬ってはばらまいて遊んでいた。京都ですねえ。初冬ですねぇ。
庭と池は1970年に発掘、整備されたとか。
秋も終わり。。。
境内のブッシュカン仏手柑。食用ではなく、皮の縦の亀裂を仏の手に見立てる。
裏山は五位山。景勝地で仁明天皇から五位のくらいをもらった山なんだそうで。京都は山だって偉い。
人がいません。静かです。来し方行く末を思い、しみじみするにはいい場所です。
この寺院の由来。
待賢門院亡き後に歌われた西行の歌
詞書
十月中の十日頃法金剛院の紅葉見けるに、上西門院おはしますよし聞きて、侍賢門院の御とき思い出でられて、兵衛殿の局にさしおかせける
紅葉みて 君が袂や しぐるらむ 昔の秋の 色をしたひて
詞書
待賢門院かくれさせおはしましにける御跡に、人々、又の年の御はてまでさぶらはれけるに、南おもての花ちりける頃、堀川の女房のもとへ申し送りける
尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし 花とちりにし 君が行くへを
陰暦の十月十日はちょうど今頃の季節。西行がこの地を訪れ、娘の上西門院の居ることを知り、召使の兵衛の局に歌を送ったということでしょうか。
二番目の歌の堀川の局は兵衛の局の姉だそうで、やはり昔の思い出を語り合える人だったのでしょう。
西行は出家したけれど、この寺へ来て紅葉を見、また花の散るのを見て昔あこがれていた女性を追慕する歌を作ったんですね。うーーーむ、街角の何でもない寺院にこれだけの謂れがあろうとは。
待賢門院は二人の天皇の母だけれど、白河上皇なきあと高倉天皇の寵愛が別の女性に移り、権勢も次第に翳り、最後はこの地で没し、五位山中に陵墓があるそうです。
今年のNHK大河ドラマ「平清盛」にも登場した待賢門院と西行、しかし法金剛院では宣伝の類はいっさいやっていません。この品の良さと奥ゆかしさ。あちこちに「平清盛」ののぼりがはためくどこぞの県とは大違いです。
京都は何でもない街角に日本の歴史がいっぱい。千年の古都、侮りがたし。あすは宝厳院へと続きます。
ドイツ旅行の写真もまだ全部整理してないのに、この二日間京都、大阪、神戸へ行っていた。
うーーーん、三男が京都の大学に入り、遊びに行くようになったのが2002年、それから多い時には年に数回、少なくても一回は出かける習慣が。
大体の観光地は行ったけど、まだまだ見どころはたくさん。毎回飽きないけど、そろそろ卒業かなとも思っている。先日褒めた宿ですが、今年はどうしたことかいろいろ変わっていて、もう泊まりたくないと思った。残念です。宿が変わったのか、私が変わったのか。。。。
京都では
老いも(某有名寺院へバスツアーできた人たち。紅葉を拾っている。)
若きも(某有名でない寺院で落ち葉で遊ぶ併設の保育所のこどもたち。観光客は500円払うけど、子供たちは毎日、高倉天皇の中宮再興の寺で遊んでるんだろうなあ。京都の子供は贅沢だあ)
紅葉と戯れておりました。
食べ物も気になり、(太秦で)
お辞儀をする人形に気を取られ、(京都駅前、京都タワーのあるビルで)
嵐山はやっぱり大渋滞で(何のはずみか行ってしまった。。。)
東山麓の誰もいない静かな寺院の庭に癒され、(こちらは入園利用を取るなんてせこいことしない。庭も自然の風情がいっぱいで却ってよろしい。某本願寺の某別院です)
こちらは本堂に庭に全部拝観したら800円と強気の設定。でも駐車場広いので、観光バスたくさん。私はお金払わないので結界から向こうへ行けません。
白川通り商店街の石柱に頭をひねり
東大路三条の民家のコレクションを見上げ
縄手筋、手作り桶の専門店。こういうご商売が成り立つのは京都ならではこそ。
大阪駅近くのドイツクリスマスマーケットでドイツワインを買い(ドイツで7.5€だったフランケンワインが、質の違いはあるだろうけど2.800円だったのに驚き←流通経費かも)
ぼんやりと神戸の街を眺めながら
遅いランチを食べて(脂っこかったーーーー)
こちらを見に行き
ルミナリエの準備も万端。
3日の京都はさるやんごとなき方が紅葉見物に京都へ行ったそうで、交通規制もあった模様。
本日は四条通、ものすごい人だかりで午後からさる政党の党首が街頭演説するとかで、警備の警察もたくさん出ていたけど、その前に京都脱出。
二日とも結局2万歩くらい歩いていた。昔は平気だったのに、疲れた。歳ですね。もうフラフラと歩きまわる旅行は卒業かな。
法金剛院で、掃除中の女性といろいろ話した。「ここは静かでっしゃろ。お客さん東京から?」「いえ、広島から」というのをとっかかりにだいぶ話した。このお寺はほかに外人男性に英語で植物の名前を教えている人がいた。It is Senryoとか言って。
一人でフラフラ歩き廻るのは私の場合とても楽しいけど、市バス一日乗り放題500円ですべてを賄おうとするので、いろいろと時間的ロスも。
いゃあとにかく疲れた。。。。