学生時代、短歌のサークルを通じて知り合った二人の歌人、40年間にわたる歌とエッセイでその創作の歴史を自らたどっている。
河野裕子が2010年に乳がんの再発転移で亡くなる直前までの歌が収録され、愛し合い、時には自我と自我がぶつかり合う様子が、歌という、一瞬スパークする言葉でよく表現されている。
生きること、愛することが作歌でより深く体験され、その正直な吐露が胸を打つ。
永田氏は京都大学の教授を務めた人だけど、人生は順風満帆ではなく、若いころは民間企業にも努め、一念発起して無給の研究員となって博士号を取り、研究者としてスタートする。
河野裕子はその歌の中で、良妻は責められるべきものではないと思わず表現しているが、時には夫家族とも同居して苦労したらしく(あまり夫の親族のことは責めていないけれど)、夫がかばってくれなかったと正直に告白している。
こんな苦労って、いくらしても誰も関心を払わないけれど、表現者はそれさえも歌の肥やしになったと思う。しなくていい苦労も、してしまえばそれを生かす。
病気になってからの精神の不安定ぶりが凄まじい。急に怒りだして止まらなくなり、家中の包丁をあちこちに突き立てたりと、家族は手を焼く。
ここからは私の持論ですが、女性に二通りあり。
包丁を調理器具としてだけ使って一生を終える人と、身近な刃物として感情の表現に使うごく少数の人と。私はもちろん器具派。いままでもたぶんこれからも。そこまで度胸ないし、怖いし。
でも感情表現として使う人がいるのも事実。そこまでになってしまう人間の抱え込んだ闇。。。。
私もいつか乳がんになった時、精神のバランス崩してこんなことするのかな。それも病気の一種、本人を責めるのは酷なのかも。夫がいつも通り仕事して自分の方に目を向けてくれなかったという気持ちだったそう。辛くて寂しかったのだろう。
その時々の正直な歌が胸を打つ。生きて、もっとたくさん表現したかったことだろう。合掌。