ローテンブルク 2012年11月
ちょうど今頃の時期だったと思う。
大学の冬休みに帰省して、高校で同じクラスだった男の子と、待ち合わせて街を歩き、途中でお酒を出す店に入った。夜だったのかもしれない。
カウンターに座り、バーテンダーにカクテルを注文し、何を話したのか。。。。
小説の話、東京の話、怠惰に流れる今の生き方では自分はだめだという内省的な話。
その時はその男の子が一番好きだったので、一生懸命話を聞いた。
また翌日、今度は別の男のから連絡があったので待ち合わせて街を歩き、何と同じ店に入ってしまった。
たった今思い出した。それは大きなキャバレーをリニューアルして、昼間からお酒出す店だった。ちょっと大人ぶりたい時に入る店はそこしかなかったのだと思う。
時効だから言います。私は19歳、一日目の男の子は18歳、二日目は・・・多分その子も18歳。お酒飲んでいい訳ないけど、昼間から飲みました。その頃はカクテル飲むのが流行っていて、憶えたばかりの名前で注文して大人びたい年頃。
二日目の男の子は、大学で出会う面白い人たちの話、いかに勉強をさぼっているかという武勇伝、そして京都の話。自分は今のままではいけないという自省的な話は一切出ず、面白い話ばかり。
昨日と同じ女の子が、違う男の子と来て、バーテンダー氏は素知らぬ顔していたけれど、男の子の話があまりに面白いのに、職業柄、笑いを堪えなければいけないのが、それでもつい笑ってしまうのが、見ていて楽しかった。
二日目の子は他に好きな女の子がいるって知っていたから、そしてそれは私の知っている子だったから、私はただの友達として気楽に話をして、二日目の方がうんと楽しかった。
比べて悪いけれど、こちらが真面目な気持ちだから緊張して楽しくないのか、と思ったけれど、その時は毎日、違う子に会うて、私はそんなん好かんと母に注意されたら、弟が、何も結婚するわけと違うけん、そのくらいは構わんと味方してくれた。
そりゃそうです。10代で結婚相手を決められるわけがない。その年頃では、いろいろな男の子と付き合ってみて、自分に合うのはどんな人か、お勉強する時期です。
何かモテ自慢に聞こえるかもしれませんが、全然そんなことはありません。私の高校はベビーブームで一学年約千人、男650人、女350人の学校でした。女の子は普通にしていたら、まあ声くらいはかけてもらえる。そんな感じです。
その男女比でクラスが編成されるのではなく、男ばかりのクラスと男女が同じ数だけのクラスとがありました。男ばかりのクラスは男子クラスとか野郎組と呼ばれ、教室の前の廊下も通りにくいのです。
当時私は校内新聞を作る部活をしていて、ある男子クラスで「野郎組哀歌」と言う歌を作った子がいて、それが男子組各クラスで流行っていて、遠足のバスの中で歌っていると聞いて、もう一人の女の子と作った本人に取材に行きました。
行ってみると、本人には会えず、しかも男の子が10人ぐらい教室から出てきて「何しに来た、帰れ」と言う対応で引き返しました。記事は本人の取材なく、伝聞と流行っているということだけで書きました。
今もその一説は歌えます。「いゃじゃありませんか、野郎組、餓えた男が50余人、戦時中でもあるまいに女抜きとは情けなや」以下10番まであるそうですが、2番からは知りません。
軍歌の替え歌ですね。嫌じゃありませんか、軍隊は・・・という。
作詞者は朝日新聞にも投稿して、「若い教師の恥じらいで性教育がすっ飛ばされたのはよくない」とトップで掲載されていて、ちょっとした話題になりました。まあ一種の才人でしたね。今はどこでどうしておられるのか。
一日目の男の子はその時の私を見て憶えていた、とあとで話していました。男子クラスに女子が訪ねて行った稀有な機会だったのかと思います。
自慢話みたいですみません。でも全然自慢話ではありません。それは私が美人でなかったからです。先日の森永卓郎さんの本によると、若い時から美人でちやほやされ、結婚してからも贅沢をする女性を妻に持つのも男の甲斐性だが、自分はその道を選ばなかったと言っていました。
男子の多い学校で男の子から普通に声かけられるくらいは、モテるのでも何でもない。本当の美人は私には想像もつかないことがいろいろあると思いますが、私にはわからない。
その代わり、カジュアルな、ユニクロを着る用に気軽に話ができる立ち位置だったのかなと、思います。まあ、それはそれで楽しかったですけど。
私の母は、いろいろ欠点も多い人ですが、子供のころからずっと、私のことをきれいで頭がいいと言ってくれたのはとてもありがたかったと思います。私は飛び切りきれいでも、飛び切り頭がいい訳でもないのですが、基礎的な自己肯定感を持っていると、若い時には人と付き合うのが楽だったし、引っ込み思案にならずに済んだし、感謝しています。
子供は褒めて育てよと昔の人は言うけれど、私の子育てにはそれが欠けてたかもしれません。
また戦争中に女学校を中退したという学歴なので、私の勉強にも一切口出しせず、高校の間は一度も成績表を見せず、(親の認め印、勝手に押していた。もう時効だけど、何かの犯罪?)、受験先も進学先も誰にも相談せず勝手に決めて事後承諾。
まあ、親の話は今回は枝葉ですが、クリスマスイヴにどこへも行かないばあちゃんはしみじみと昔のことを思い出してしまいました。
一日目の男の子とは別れた。二日目の男の子は、ありがたいことにいまだに年賀状をくれる。昔、我が家に、広島に学会があった時に尋ねて来てくれたこともある。夫とは同業者。私の分からないことをいろいろ話していた。
今からは深い縁を結べるような出会いはないかもしれないけれど、それでも出会った人との縁は大切にしたい、そして、嫌な人とは、もう無理して付き合うこともないのだと、思う。
ドイツ、バンベルク。2012年11月。