一月も終わり。 今年も残り11か月になった。大過なく過ごせますように。
2015年1月。高松市、栗林公園で。
ささやかな介護の体験者として、読みながら、こんなにムカムカして腹立つ小説は初めてだった。
著者は僧侶にして芥川賞作家。そんな人の書いたものに文句つけるのは気が引けるけど、実際に在宅介護の経験はないと私は感じた。もし、違っていたらごめんなさい。
介護がどれだけ大変か、著者はわかっていないと思う。そこのところが一番引っかかる。小説の中では、別居している次男とその妻は、インドネシアから来た長男の若い嫁の善意に頼るだけ。
東北南部か北関東の地方都市が舞台。小説の始まる時点で、義母の長男(テルちゃんの夫)はすでに死んでいる。テルちゃんと呼ばれるエテル、介護の要る義母、二歳の子供の生活は義母の年金と長男の生命保険金だけ。家は農家でもなさそうで、特に資産があるわけでもない。
建設業の次男、中学教員の次男の嫁は子供がない。この二人は月に一度くらい覗くだけで、来た時には手助けするけれど、次男は介護は基本的にはテルちゃん任せ。次男嫁は私が学校やめるわけにいかないし、と及び腰。
それならお金の少しも出せばいいと私なんか思うけど、全然知らんふり。そればかりか親族の葬儀で里帰りした後、テルちゃんの貯金通帳探して、持ち逃げされてなかったと安心する。あんまりである。
夫の死んだ後、介護の義務のないテルちゃんはけなげに義母の介護をする。週に二、三度の浣腸と便の始末もする。次男は一度するけれど、親の便は見たくないとか言い、次男嫁は初めから手出ししようとしない。
お金出さない、手助けもしない。それなら感謝の一言もあってしかるべきだけど、純粋無垢、天使のようなテルちゃんに心が洗われていくばかり。
今の日本人で、ここまでする嫁はいないのでは。義母が死んで、相続はどうなる?
放棄してテルちゃんに家屋敷譲るなら、まあ多少は次男夫婦のこと許してもいいと思うけど、この作品の後、どうなるんでしょうね。
作者はそこまで考えて書いたかどうか。
日本語がたどたどしく、運転免許の学科試験に何度も落ちるテルちゃんは、異世界から舞い降りた少し能力の足りない、無垢な天使。その設定でないとこの作品は成り立たない。
日本人にできないことを、インドネシア人に押し付けてえんかいな?
貧しくて自国で生きられない人間はそのくらい我慢しろとでも?
民族差別になってませんか?外国人差別になってませんか?
最後は、テルちゃんの行いを通じて、テルちゃんの子供たちや(前の結婚の時の子供を一人呼び寄せている)、次男夫婦の緩やかで温かいつながりとして、家族が再生する。
次男嫁の玲子も心がほぐれ、絶縁状態だった自分の親に会いに行こうとする大団円。
介護を経験したことない人はきっと感動すると思う。
でも介護をした私には突っ込みどころ満載の小説。いい気なものと思った。
だいたい、義母がこんなに順調に自宅で死んでくれなかったらどうする。毎日、毎日同じことの繰り返し。百歳まで生きることもあるこの長寿社会、小説もいつまでたっても終わらない。
自分の親の介護を、長男嫁という他人に任せている全国の皆様。
介護の間はまめに顔を出して交代する。
仕事そのほかで行けないなら金銭の援助をする。
その時には感謝の言葉を伝える。
ということをお願いしたいと思います。
介護者をいたわることも、被介護者への思いやり。
しかしたいていは、たまに来る人間に限って、介護の仕方にあれこれ文句言った
り、自分がいないときのことまで指図して帰るもの。
認知症に効くから「私が歌を入れたテープ聞かせてあげて」とか、「肌にいい乳液塗ってあげて」とか。
余計な用事増やさんでほしいものです。って、おやおや最後は個人的な感情になりましたね。
介護しない人間はこんなにもノー天気なんだと、この小説読んで参考になりました。