ああ、これですね。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200227-00472300-rccv-l34
先月発足した会の代表は、地元で教科書の活動もしている人です。
多くの人が不快に思う展示・・・って、ほとんどの人は無関心、関心あってもまあいいんじゃないのというスタンスと私は思います。
今の時代になってもまだ強力な、言葉にできないタブーがある。こういう言説が浮かび上がってくるたびに、昭和生まれの私は禍々しく思い出すことがあるのです。
子供の頃でしたが、気に入らない小説を出した出版社の社長宅に刃物を持って押し掛け、お手伝いさんを殺し、家族が負傷した事件がありました。その小説は絶版、作家も放浪生活に入ります。小さな出版社が特集の中で掲載したのをずっとのちになって読みましたが。
同じころ、社会党の委員長が演壇の上で刺殺される事件もありました。それを扱った小説も長らく絶版で、長い間たって、時代がすっかり変わってから全集に入れられたと記憶しています。
制度とは厄介なものです。いかようにも利用できる。私が思うのは、制度の中と外の人間を同時に疎外する制度は、今の時代には合わないということです。
中の人は、自分たちの存在意義を国民に寄り添うことで見出そうとしています。そうしなければ制度自体の存在意義がないと。自分たちが寄り添うことが国民のためだと。
外の人間はそれぞれでしょうが、私は、一つの血族をありがたがる限り、生まれによって人にレッテルを貼る差別やその他の差別もなくならないと思っています。
差別の行き着く果てがユダヤ人の大量虐殺でしょうか。2017年、ポーランドへ行き収容所跡見学。人はこんな恐ろしいこともできるのかと、慄然としました。
人は人を差別しないと生きていけないのでしょうか。人の知恵はいまだそのことを乗り越えていないとしたら残念です。
私のこの感覚は、たぶん生まれ育った環境にあります。
純粋農村地帯に育った私は、小学校高学年になり、図工や音楽の市全体の催し物に行くと、街の学校の子に差別の目を向けられました。
初めは何言われているのか理解できなかった。それから何か自分が劣っているように思えて嫌だった。と、今思えばそういうことです。
中学校へ行くと二つの小学校から来るのですが、街の子でも勉強できない子はいるし、お行儀悪い子もいるし、嫌な思いをすることはなくなりましたが。
それともう一つは、戦争に行きたい、行って国のために戦いたいと日記を書き残していた叔父が21歳で南方で戦病死(餓死)したことを知っているからです。
http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-date-201904.html
こちらの展示も考える会と同じ人の企画。
ものすごく不愉快でした。教育勅語が日本人の道徳感を育てた。とか、朝鮮は遅れた国だったので、しなくてもよかったのだけど近代化を手伝ってやったとか。そういうくだりです。
父母に孝行は古くからの徳目、教育勅語ではその延長上に天皇を持ってきて、いざとなったら国のために身をなげうって奉公すると話を広げていきますが、それは戦争に抵抗ない人間を作るため。その否定の上に戦後の日本は作られたのに、あまりにも時代錯誤です。
一民間人、一民間団体が余計なお世話、えらそげに言わんでほしいと私は不快感いっぱいでありました。
朝鮮人が日本人より劣っていると差別丸出しの展示もあったりで、こんなものを市の施設で展示できたものと、そちらに私は呆れました。
自分たちの考えに合わないものは圧力かけてやめさせようとする。一方で人に不快感与える展示は費用かからず安くできたと喜んで、ヘイトスピーチを垂れ流しにする。
矛盾していますよね。独善的だと思います。
人は人種、生まれ、そのほかで差別されない。それがまわりまわってみんなの幸せになると私は信じています。
どこの国の人も差別しない。そして、私も日本人だからということでどこの国の人からも差別されたくない。話はいたってシンプルです。
外部委員会つくるなんてもってのほか。事前検閲になりませんか。やめてもらいたいものです。それなら、昨年の展示も事前にチェック受けるべき。そうでないと片手落ち。
こういう場合は、たとえ少数でも声上げた方が勝ち。って、ことがことだけに、反対の声が上げにくいとしたら、それこそがこの制度の持つ闇の部分。
昨年、この展示の感想をこのブログに上げたら、何人かの全然お付き合いのない方からコメントいただきました。
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