1週間の山旅を終えて、左ふくらはぎの肉離れは、ほぼ完治したものと思われ、痛みも張りもなくなりほっとしたところだが、帰って、例のG病が悪化して、Z薬やN膏を施しても痛みが治まらず、やっかいなGIG核に苛まれたようで、外に出たくない。ものの本、ではなくネットで調べたら過度のアルコール、長時間歩行、長時間座位、辛い物の摂取などに起因するとのことだが、どれにも当てはまるので、因果応報というやつだ。
S血の後とかに、これまでも何度か発症したが、Z薬やN膏のお陰で1,2日で回復してきたが、3日目の今日も思わしくない。ネットでは、患部が引っ込まないステージⅣの場合は、保存ではなく手術によるべしとあるが、何が嫌かといって、K門科やSN器科にいって患部を見せることと、他人に患部を触られることなのであり、「死んでも嫌」なのだ。ここは、薬師寺や新薬師寺の仏様に念仏して、ご加護を期すしかあるまい。しばらく、横になっていよっと。
戦時中に盗まれた新薬師寺の香薬師様のレプリカ像を新薬師寺と東京の深大寺で拝ませていただいたが、あの仏様の笑みを思い浮かべると痛みが引くようだ。
木曽福島から甲府で一泊、仙台までの在来線に長時間座して、日曜日の「きらクラ」の録音を聴いていたが、そのBGM選手権のお題となっていた「竹取物語」、かぐや姫が月に帰るくだりを聞いて、はっと思った。この、日本最古といわれる物語は、「人は誰しも、故郷の星からやってきて、故郷の星に帰る定めにあり、いかなる抵抗をもってしても、この定めに抗うことはできない」、もっと簡略化すれば「人は死ぬ運命にあるが、またどこかの石ころにでもなって生きている」、という般若心経や宇宙物理学の真実を語っていないか。この物語の最後の下りは、残された翁らにかぐや姫が置いて行った手紙と不老長寿を暗示した不二の薬を富士山頂で燃やすこと。いかなる処方箋や薬をもってしても、少しは生き延びるが、「確実に死ぬ=星に帰る」。という物語なのでなかったか。SFでもなんでもなく、ヒトも地球も生きているものはやがて消滅するが、やがて星となって生成し、またどこかの宇宙をさまよっているという、奥深い物語ではなかったのか。
燃やされた薬の煙は、今も富士山頂から立ち上っているとか。富士山頂の爆発的噴火は2400年前とのことだが、物語が作られた平安初期には、まだ山頂から噴煙が上がっていたのだろう。富士も、生きているのだ。
2019年、御嶽山の噴煙は収まりつつあり、この10月16日まで頂上に立つことを許され、天気にも恵まれて2014年9月27日の犠牲者に祈りをささげてきたが、月を眺めながら、「そう遅くない頃合いに、オイラもそちらの国の住人になるんだな」、「あそこから眺める青い地球でのことを思い出しながら、お月見ならぬお球見でもしているのか」。煌々とした満月を酔いながら眺めていると、そのような思いにとらわれたが、古人も月を眺めては、そのような思いの虜になった輩が、何人かいたのだろう。
9月14日御嶽の月
午後7時過ぎの東空
朝、4時過ぎの西の空
9月17日の朝の月(家に帰って)
竹取物語原文と現代語訳
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