日曜日は、雨の中、山形市で開催された山響・仙台フィル合同コンサートに行ってきた。
コンサート会場に行くのは、久しぶりだ。政府による大規模イベント自粛要請があったちょうどその日の2月26日に大阪のフェスティバルホールで開催されたみゆきさんのコンサート以来だ。
会場は、山形県の施設、山形県総合文化会館(ネーミングライツ・やまぎん県民ホール)。2020年3月にオープンとあるから、自粛解除によりやっとイベントが開かれたのだろうから、こけら落としコンサートに近いだろう。山形駅西口から歩いて3分か。2001席というから、東北有数のコンサートホールに違いない。ちなみに、フェスティバルホールは2500席だから、この県民ホールも、いかに大きいか分かるが、今気づいたが、みゆきさんのコンサートは、4月8日に、この県民ホールで開催される予定であったので、何かしらの縁を感じざるを得ない。みゆきさんのコンサートもこけら落とし公演の一環だったのだろうが、もちろん、2001の席を埋め尽くし、歓声に沸いたことだろう。
この施設のすぐ近くには、山形テルサという山形市のコンサートホールもあり、市と県が隣接した箱モノをこしらえて「税金の無駄遣いではないか」と訝ってはみたが、テルサは、800席少しとあって、行政に弁明させれば「住み分けました」と答えるのだろう。テルサは、山響の本拠地にもなっていて、かつて2,3度通ったことがあり立派なホールだが、この県民ホールと比較すれば、規模からして上野の東京文化会館の小ホールようで、「無駄遣いというご批判はあたらない」と、行政はさらに答えるのだろう。
無駄づかいの話はおいといて、今度できた県民ホールは、とても立派な施設だ。昨日のコンサートで指揮した山響の芸術総合監督飯森範親さんは、「ここの響きは、あのブルックナーが眠るリンツの聖フローリアン教会の残響に似ている。」とたぶん儀礼的だろうが、そのように絶賛していたが、そこまでは分からんが、地元の木材を多用した見た目も美しく、響きもとてもよい音楽ホールで、山響や仙台フィルのオケが「数段にレベルを上げた」ような気分にさせてくれた。
「東北UNITED~東北は音楽でつながっている~」と題された、山響と仙台フィルメンバーによる合同演奏会。本来は、ブルックナーの8番をやる予定であったが、コロナ自粛のせいで練習時間が足りないと見たか、「祈り」(管楽器による地元サッカーチームのファンファーレ・ブルックナーモテット)、「未来」(若い弦楽奏者によるエルガー)、「希望」(フルオケによるチャイコフスキー)と題された三部門による復活コンサートのような内容に変更されていたが、上記の通り、残響が豊かで、とくに管楽器がよく鳴っていて素晴らしかった。「希望」の演目、飯森さんの指揮によるチャイコフスキーの5番は、久しぶりに血沸き肉躍らされたので、満足して高速バスで帰途に就くことができた。ぜひ、この響きのよい大ホールで、合同コンサートによるブルックナーの大音響を聴いてみたいと「希望」に駆られる。残念ながら、仙台には、このような響きの良いホールは、ないのだと思う。聴衆が満足し、郷土に自慢できるものがあり、愛されれば税金の無駄づかいとはいわないだろう。
それにしても、ソシアルデスタンスということで2001ある席の700程度だけに配置された今回の座席は、とても居心地がよかったが、こんなんじゃ、オケの報酬もままならず、コロナ禍が収まるまで、赤字、赤字と続いていくのだろう。遠からず、2001席が満席となる日が訪れることを祈るばかりである。
コンサートが始まる前に、晴れてきたので、霞城公園を少し歩く。隣県だし、仕事もしたことがあるのに、駅から歩いて10分の位置にある城址公園を歩くのは生まれて初めてだった。
広大な敷地の一角を少し歩いたばかりであるが、あとで調べると、最上氏の居城した14世紀から安土桃山時代頃までには、三の丸のお堀が今の県民ホールあたりまで張り巡らされていた超広大な敷地であったとか、驚きである。まさに、遠くが霞んでしまうほどのお城だったので山形城は霞ヶ城とよばれていたという。当時の最上氏の権勢ぶりがうかがえる。
その最上氏の権勢も久しからず、江戸期に入るとお家騒動ですぐに改易され家は廃れていき、その後、明治期まで何人もの藩主交替があったとか。廃藩置県後、城主の去った霞城は陸軍の施設となり、天守閣のない平城だったが、建物は取り壊され、お堀は埋められ、石垣は崩され、広大な軍事訓練の敷地となっていたそうだ。いずれにしても中世から近代にかけて山形の軍事拠点であったろうが、そんなきな臭い歴史は草に埋もれ、二の丸のお堀沿いには桜木が鬱蒼としていた。まもなく蟬しぐれに包まれるのだろう、町の真っただ中とは思えない静かで美しい園地だった。
戦後、その敷地は、再び山形市の管理となり、一部は運動公園化しているが、現在は、本丸・二の丸跡の発掘作業や東大手門や大手橋が復元され、本丸・二の丸跡は国指定の史跡となっており、今後、さらに税金を投じての復元がなされていくようだ。
明治政府が壊して埋めたものを、巨額の税金を投じて掘り起こし、復元していく作業が現代においていかなる意味を持つのか、いささかの疑問ではあるが、「つわものどもの夢のあと」を学習させ、平和への願いを強くさせるのだとしたら、県民ホール同様、無駄づかいとは言わないのか。
復元された本丸大手門に架かる橋
橋の位置は、あそこだよ