きのう、ひさびさに雨の予報がなかったので、セミの音が聴きたくて山寺に行く。仙台は、25℃なのに県境をこえて山形の地にはいるや、30℃をこえている。奥の院までの階段で、汗が吹き出し、ふらついて気分が悪くなってくる。自粛のせいにする体重増と胃腸の不具合。数年前まで、富士登山競争やトレランにいそしんでいたヒトと同じヒトかと疑いたくもなる。なんという時のむごさ。
芭蕉翁が、奥の細道で詠んだ「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」のセミが何のセミだったのか、かつて歌人の斎藤茂吉と漱石の弟子だった国文学者小宮豊隆との論争あったということだが、芭蕉翁が立石寺を訪れた旧暦うるう年5月27日は、いまの太陽暦で7月13日とあって、茂吉の主張ずるアブラゼミは、「まだ鳴くのは早い」と片付けられ、小宮の主張するニイニイゼミが定説になっているとか。元禄時代の気候はいかなるものか分からんが、明治以降今に至るまでの概ねの季節感覚からして、ニイニイで妥当なのだろう。
地球温暖化が叫ばれる今日この頃、昨日は、もう7月20日。アブラゼミが鳴いていてもおかしくないのだろうが、山寺に降りて耳を澄ませども、ニイニイの微かな音を聴きとるのがせいいっぱいだった。今年は、永く梅雨空が続いてきたので、今年は「何か変」なのだろう。
でも、微かな音量でも、ニイニイが鳴いていいてくれてよかった。
思うに、芭蕉翁のあの句。「ニイニイでなければならない」と思っている。昨年も同じ時期に山寺をあるいて確信していたが、おしゃべりなしでは生きられないような外国勢が皆無に近かったことと、日本人参拝者も圧倒的に少ない今年の立石寺に登ってみて、佳景寂寞(カケイジャクマク)とした環境には、ニイニイの高周波の弱音がぴったりするのであり、まさに何千年も沈黙に耐えている凝灰岩の岩肌に、ニイニイの醸し出す音が吸い込まれていくような、そんな感覚を体験する。
俳人の、長谷川櫂さんは、NHKの100分で名著で、芭蕉翁のセミの声は現実のものではなく、芭蕉が心の中で聞いた静けさであるようなコメントをしておられるが、オイラは詩人の西脇順三郎さんの下記の訳の方が、現実的なのだとおもう。ニイニイの控えめな高音(オイラの右耳の耳鳴りのようだ)は、そもそも「閑か」の範疇に入るものだろう。
何たる閑かさ
蝉が岩に
しみ入るやうに鳴いてゐる
山から下りて、立谷川河畔の梢でニイニイが瀬音にかき消されるように鳴いていた。川面からはカジカガエルの声も聞こえた。カジカガエルの音も日本の夏の静けさ。瀬の音だって、ややもすれば静かなものだろう。個人差はあるだろうが、オイラにとって夏のセミ音(アブラやミンミンだって)は、すべからく静寂を誘う懐かしくもいとおしい音源なのだ。「山の音」すべからくなのかもしれない。もうすぐ、最も愛すべきカナカナの短い季節がやってくる。
頂上付近の納経堂からは、面白山の山並みが青く望める。1000年以上にわたって祈りをささげるヒトビトが目にした風景。
トチの実が大きくなって色づいてきた。あと半月もすれば、立秋なのである。
寺のカキの実も大きくなっている。甘いのか渋いのかわからないが、誰かが植えついで、口にしてきたことだろう。
この夏も、ニイニイが聞こえてよかった。
すこし、スライドビューにしてみた。