仙台市のイズミティ小ホールで仙台市生まれの国際的ピアニスト小山実稚恵さんのピアノリサイタルを聴きにいく。
ことし、ベートーヴェン生誕250周年を記念して、後期ピアノソナタを中心とした演目を、数回のシリーズで催している第3回目で、この日は30番のソナタとバッハのゴルドベルク変奏曲をやるということで、いささかの迷いもなくチケットを購入していた。とはいえ、仙台市立図書館の通路に貼っていたポスターを「たまたま」見かけて、発売直後にネット購入したもので、シリーズ第1回から聴いてきた小山さんのフォロアーでもなく、ベートーヴェンオタクでもなかった。
遠い昔、「たまたま」シュナーベルでベートーヴェンの後期ソナタを、グールドでゴルドベルクを、レコードで熱心に聴いていた頃があり、30番とゴルドベルクの組み合わせをポスターで「たまたま」見かけ、また、ずいぶん昔から、ショパン国際コンクール第4位当時から小山さんのことは知っていて、ラジオから流れる彼女の演奏するショパンなどには魅せられ、一度ライブでお目にかかりたいと思っていたことなどが重なって、演奏会まで足を運んだということ。
まわりくどい言い訳だが、ヒトの行動は、「様々な縁の糸が絡まって」決められている、ということを言いたい。「たまたま」と「たまたま」の複合体。
発売開始直後・地方都市・コロナ禍というこれも「縁の糸」のおかげでか、わずか4000円で、ピアノから20メートルも離れていない上等な席に座ることできた。東京などのようにオーチャードホールみたいな大きな会場でやられているのと比較し、これは、地方在住者の特権だ。(350人の会場にコロナ対策のため半分しか入れないと利益は少ないだろうに。すみません。)
コンサートホールでこんなに近くでグランドピアノに接するのは人生で初めてなのだが、演奏が始まるまえに舞台中央に据えられたスタンウェイの艶を消した黒い姿をまじかに見られただけで、ひとかどの美術工芸品に出会ったよう、演奏開始まえから何やら興奮した。
そして、どこか百済観音さまに似たほほえみで登場した小山さんの奏でるソナタ30番と、休憩をはさんで1時間もの演奏時間を要するゴルドベルク変奏曲(アリア~30の変奏曲~アリア)、そしてアンコールに演奏されたバッハ平均律1番第一前奏曲ハ長調を澱みなく聴き終えることができた。シュナーベルともグールドとも異なる風景だったが、それはそれは美しい風景だった。とくに弱音の息づかいがまじかに聞き取れ、小ホールの魅力を堪能した。全曲暗譜により弾いた小山さんの英知と技術にも目を見張った。
グールドの演奏が鉱物や雪の結晶のきらめく美しさなら、小山さんのゴルドベルクは美しい田園をぬう清流のきらめきか、80年録音のグールドよりハイテンポで流麗ながら優しかった。
ソナタ30番の第三楽章も変奏曲になっていて、主題~6つの変奏~主題と、初めの主題が再び現れて静かに終わる。まるで、春がやってきて、次の年に春がまたやってくるように、無から生まれた命がまた無に帰すように、二つの変奏曲は共通の意識が流れているようであるが、小山さんは演奏前に、「ゴルドベルクの30の変奏を弾いた後のアリアは、同じ音符なのに最初のアリアとまったくちがう感慨に囚われる」という趣旨のコメントをしていた。「音楽が生きていることを実感する。」という。
このような感慨をどのように説明すればよいのだろうか。
春が来て、地上に草の芽が吹き出し、小鳥が囀り、花が咲き、雲がわき、稲妻が光り、雨が降り、虫が飛び、風が吹き、木の実が熟れ、葉が色づいて、雪が舞い降り、川面が凍り、やがて雲間からあたたかな光が差し込み、また同じ春がやってきたが、去年と同じ春ではない感じる心。時々刻々とした変化=変奏により、こころの在りようも変化しているので、また同じ現象が前の前に現れても別のものと感じるということ、それが「生きている」ということか。
20代に聴いたゴルドベルクが、60代に聴いているゴルドベルクと別のものと感じることも、おなじ理由なのだろうか。それは、人生におけるさまざまな変奏(悲喜こもごも)を経験してきたからだというのか。
昨夜聴い二つの変奏曲と小山さんのコメントから、多くの示唆を受けて家路についた。
小山さん、来年も仙台で第4回(ソナタ31番・バッハ半音階幻想曲とフーガ‥)、第5回(ソナタ32番、シューベルトソナタ19番)「ベートーヴェン、そして・・・」シリーズのリサイタルを行うのだという。聴きに行きたくなっているのが、今のエニシ。