1月23日(月)、新婦人の役員会に友人も一緒に参加。やはり人数が増えると、にぎやかになり、これからの高齢化の問題や若い人たちとの同居の問題。どんなことも最終的にはお金の問題で、いさかいが起こる。それは実の親子でもそうである。ますます泥沼に入ってしまう。人間というのは感情が余りにも表に出ると厄介なものである。感情をそのまま抑えていると病気になってしまう。同年代のなんでも話せる友人がいることで救われる。そんな仲間作りをもっと新しい人を入れてがんばりましょうだって。
先日から母の歴史を書こうと思ってみても、なかなかパソコンに座っても、できないでいるが、思い出しながらすこしづつはじめようと思います。
母は大正9年8月15日、豊田市で8人兄弟の3女として生まれ、すぐ下の弟は、生まれてすぐに死んでしまった。現在91歳。特に重い病気はなく、自分のことは自分でやっている。今まで、ミシンで、袋物をたくさん作って、みんなに差し上げていたが、もう今年からは作らないといっていた。寒いうちは布団の中に入って、テレビを大きな音量で聞いている。最近ご飯を何度も食べたり、薬を飲むことを忘れたりしているようである。今は次男夫婦と暮らしている。娘の私から見れば、しっかりしている母であると感心している。
母は子どものときから、かしこい兄と姉と弟に囲まれて、とてもそれが自慢のようである。母の長兄は、代用教員としてよく働いた。学校に行く前に、田んぼや畑仕事をやって、学校に行ったもんだ。帰ってくるとまた田んぼにいき、暗くなって帰ってきた。
兄が徴兵で軍隊に入ってからは、長姉は早く結婚していないし、次姉は仕事に行き、家に残るのは母だけということで、本当は洋裁を習いたかったけれど、やらせてもらえずに、母が家の田んぼの仕事を引き受けることになる。
母の父親(私にとっては祖父)は、雑貨屋と豆腐を作ってお店をやっていました。白いひげを長く伸ばして、祖父に抱っこされると、ひげの痛いこと痛いこと。
母には、下に弟が3人いたけれど、すぐ下の弟がそれはそれは母にとって一番の自慢の弟でした。「浩三」といって、背は高く、ハンサムで、賢くって学生帽がよく似合う好青年だったそうです。いつも私たちも写真を見せられます。あるとき馬を乗り付けてきて、「馬を買ってきたから金を払っておいてくれ」といって、馬を飼ったり、自由に好きなことをしてきた弟だったそうです。
戦争が激しくなって、弟は千葉県に学徒徴用で防空壕堀をさせられていたとき、アメリカの戦闘機の銃弾に撃たれて死んだそうです。学友がお骨を持ってきてくれたそうですが、それはそれは家族の悲しみはいかばかりであったことでしょう。
長兄は南洋のほうに行って、戦死でした。あまり詳しいことはわからないようで、母もあまり話そうともしませんでした。
取り会えず今日はここまで。
今日の万歩計は、10,293歩でした。