1月25日(水)、友達4人で会おうと約束していたのに、1人が病院。もう1人は電話してもぜんぜん連絡が取れず、「二人じゃね」ということになら来月に集まることになった。せっかく着物を着て準備していたのにね。残念。まあこの年齢になると、さっき約束していたことも忘れてしまうことも、珠にはあるので仕方がないかな。
ぽっかり明いた一日。ブログでもと思いながら、2~3日つけると、もう飽きてしまった。「母と戦争」についての原稿を頼まれていたので、書いてみました。今日はその続きを書くことにします。さあどこまで書いたのかな。
母にとっての戦争は、兄と弟の戦死が一番の記憶のようです。
豊田といっても当時は、山手に行けば、狐や狸が出てくる田舎ですから、空襲などの直接の被害はなかったようです。ただ、岡崎の方面を見ると、空襲によって、真赤に燃え上がっていたのを見ていたそうです。
母の結婚については、私が大人になって聞いたことですが、、結婚相手の男の人は戦争に行って、ほとんどいない状況で、畑と田んぼを守るために、男並みの仕事をしてきた。
手を開くと、いつも手をジーと見て、女の人では、こんな指の太い人はいない。男みたいに力仕事を一生懸命してきたからだ。結婚する相手は、農家の人は絶対いやだったと話していました。しかし、近くに男の人がいないということで、近所に人がどうしてもといわれて、いやいや結婚したそうですが、畑や田んぼをやらせるために結婚したようなもので、胸を患って、実家に引き取られたそうです。戦争が終わって、病も治って、私の父を紹介され、農家ではなく、電気屋を営んでいるということで、結婚を決めたそうです。3人の子どものいる後妻として、12歳も年の離れた父と結婚しました。
そして21年11月に私が生まれたときに、「平和になりますように」と願いをこめて、「和子」と私の名前をつけたそうです。私は「和子」という名前は必ずクラスに何人かいて、とてもイヤだった。「和代、和枝、和美」なども入れると、すごい多くなります。しかし、大人になって、平和を愛する子どもになってほしいと願う親たちの気持ちが分かるようになって、やっとこの名前が好きになりました。親たちの願いをまた子どもや孫に伝えるのが私の役目だとも思っています。
今日の万歩計は、4,930歩でした。