午前中に庁舎建設工事の説明会が行なわれました。近くの職員も何人か参加で、30名近くの住民が参加していた。
「小学校の教師ですが、50億円近く莫大なお金を使って建設されるが、教育予算を削られることはないか」「周辺住民への説明会のお知らせは、ホームページと稲葉町だけの回覧でなく、北一色町、須依町にも隣接しているので、説明会をすべきではないか」「小中学校の登下校時の子供たちの安全対策は万全にしてほしい」「通常業務と並行して工事が行なわれるようであるが、利用住民の安全性を優先して工事を行い、工事個所に合わせて、出入口が変更されるが、利用者に不便をかけないようにしてほしい」などの要望が出されました。
午後は、永和地区公民館で「被爆者の体験を聞く会」がおこなわれました。
愛西市在住で、88才の方で、名古屋で招集され、すぐに広島の大竹海兵隊に配属された。8月5日にアメリカ兵が空からビラをまき、それのコピーを今でも持っている。
8月6日空襲警報解除後の訓示を聞いていた8時15分に広島に原子爆弾が落ち、凄い爆音と爆風に噴き飛ばされた。
夜中に広島市へ行くよう軍の命令があり、被災者の救助に当たる。
怪我ややけどをした人は、野戦病院に連れて行き、死体は山積みにした死体置き場におき、竹筒に入れた水は持っていったが、絶対に水は飲ませるな、水も毒があるから飲むなと入れて、呑まず食わず4日間救助に当たる。
海兵隊に帰ってきても、鼻血が出るわ、髪は抜けるはで、体調はよくなかったが、終戦後3ヶ月たって、軍隊手帳をゲートルに隠して持って、やっとの思いで、名古屋に帰ることができた。
家に帰ってきても、体がだるくて、何もやることができなく、1時間立っているのもつらく、仕事もできず、長く勤めることもできず、親や兄弟からも怠け病といわれた。
昭和33年に結婚しても、原爆症とは言えず、妻にも子供にも最近になって、やっと原爆症であることを告白する。妻は「原爆症と知っていたら、結婚しなかった」といわれ、息子は52歳になるが、父親が原爆症のために、結婚もできない。
原爆手帳も昭和33年にやっと発行してもらい、今までの分も含め、手帳を8冊すべて保管してある。
長崎病院に診察しに行ったときに、長崎の原爆被爆者の深堀さんと出会い、交流を深め、
多くに人たちと一緒にお金を集めて、中国の奉天、ソ連のレニングラード、アメリカのハワイに長崎の金を寄贈した。
思い出せることを1時間半ほど休憩もなく、原爆の体験を語っていただきました。
愛知原水協では、ビデオにとって、愛知県下の被爆者の体験談を残そうとしています。
戦争の悲惨さやたくさんの資料を是非愛西市も保存するように働きかける必要を感じました。
今日の万歩計は、5,020歩でした。